あこがれ(2)

目次2*1


*1:字数の関係から3つに分けた

ひとりゆかむ

日はくれぬ。
(愁《うれ》ひのいのち)
幻想《おもひ》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
万有《ものみな》音をひそめて、
(ああ我がいのち)おもひでの
妙楽《めうがく》の夜《よる》あまき森。
  (夜のおもひ
   いのちのおもひ)

恋成りぬ。
(夢見のいのち)
忘我《われか》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
花瞿粟《はなげし》にほひゆるみて、
(ああ我がいのち)つく息《いき》の
みどりうす靄ゆらぐ森。
  (夜のにほひ
   恋のにほひ)

恋破《や》れぬ。
(なげきのいのち)
祈《いの》りの森に、いざや
ひとり行かむ。
面影《おもかげ》、いのるまにまに
(ああ我がいのち)天《あま》の生《せい》
あらたに香《かほ》る愛の森。
  (夜のいのり
   いのちのいのり》

月照りぬ。
(あでなるいのち)
幻想《おもひ》の森に、いざや
ひとりゆかむ。
ほのぼの、月の光に
(ああ我がいのち)故郷《ふるさと》の
黄金《こがね》花岸《はなぎし》うかぶ森。
  (夜のいのち
   ああ我がいのち)

(甲辰五月十七日) 

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花守の歌

夜はあけぬ。
生の迎《むか》ひに
心の住家《すみか》、園の
門《かど》を明《あ》けむ。
光よ、花に培《つち》かへ。
夢より夢の関《せき》据ゑて、
孤境《こきやう》の園《その》に花を守《も》る。

花咲くや、
愛の白百合、
愛はほのぼの、夢の
関《せき》に明《あ》けて、
霧吹く香《におひ》盞《さかづき》
我にそなへぬ、我が守る
幻、光、生《せい》の園。

はなやかに
黄金《こがね》よそほふ
姫の百人《もゝたり》、唇《くち》に
ほこり見せて、
ゆたかに門をよぎりぬ。──
それには似じな、わが胸の
あでなる夢に生《い》くる花。

日は闌《た》けぬ、
昼の沈黙《しづまり》。──
かかる日なりき、我は
ひとりゆきぬ、
新たに生《せい》や香ると。
守る孤境の園を出《で》て
黄金よそほふ市《いち》の宮。

いかめしき
門守《ともり》の姫ら、
我をこばみぬ、『園の
鍵《かぎ》を捨てよ。』
うつろの笑《ゑみ》や、宮居の
権力《ちから》うしろに、をどろきて
我はかへりき、わが園に。

つちかへば、
花はおのづと
天《あめ》にむかひぬ。これや
生の梯《はし》か。
ねむれば園は花楼《はなどの》、
霊の隠家《ゐんげ》よ。我が守る
小さき園生に我ぞ王《わう》。

やはらぎの
愛歌《あいか》わたるや、
花の大波《おほなみ》、園に
しらべ掻《ゆ》りて、
天《あめ》なる夢の故郷《ふるさと》
匂ひ海原《うなばら》さながらに、
光と透《す》きぬ孤境園《ひとりぞの》。

日はくれぬ
夢の守りに
心の住家《すみか》、いざや
門をささむ。
夜なく日なき園には
夢より夢の関《せき》据《す》ゑて、
天路《あまぢ》ひらかむ鍵《かぎ》秘めぬ。

夜よ降《を》りて
ものみな包め。
わが守《も》る園の門《と》には
暗は許《ゆ》りず。
我が園、今か世界に
光をつくる源《みなもと》の
孤境の園に我ぞ王《わう》なれ。

(甲辰五月十九日) 

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月と鐘

   (とある風琴の曲に合はせむとて友のために作れる
   小歌)

あまぢはるかに故里の
楽《がく》の名残をつぐるとて、
さくらの苑におぼろなる
夢の色ひく月の影。

花は眠れど、人の子の
夢なりがたき旅ごころ、
とはの眠りに入れよとて
月に泣くらむ夜半の鐘。

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我なりき

ほのかに夜半《よは》に漂ふ鐘《かね》の音《ね》の
いのちぞ深きまぼろし、──『我』なりき。
『我』こそげにや触《ふ》れても触れ難き
流るる幻。されば人よ云へ、
時より時に跡なき水【なわ】*1《みなわ》ぞと。

ああそよ、水【なわ】*2《みなわ》ひと度うかびては
時あり、始《はじめ》あり、また終《をはり》あり。
瞬《またゝ》き消えぬ──。いづこに? そは知らず、
あとなき跡は流れて、人知らず。

瞬時《またゝ》、さなり瞬時、それ既に
永久《とは》なる鎖《くさり》かがやく一閃《ひとひらめき》。
無生《むせい》よ、さなり無生よ、それやはた、
とはなる生《せい》の流転《るてん》の不現影《みえざるかげ》。
或ひは人よ、汝等《なれら》が自《みづか》らを
みづから蔑《なみ》す沈淪《ほりび》の肉《にく》の声。

ああ人、さらばいのちの源泉《みなもと》の
見えざる『我』を『彼』とぞ汝《なれ》呼べよ。
無生《むせい》の生に汝等《なれら》が還《かへ》る時、
有生《うせい》の生《せい》の円光《ゑんくわう》まばゆきに
『彼』とぞ我は遊ばむ、霊の国。

見えざる光、動かぬ夢の羽《はね》、
音なき音よ、久遠《くをん》の瞬《またゝ》きよ、
まぼろし、それよ、『まことの我』なりき。
『彼』こそ霊の白【あわ】*3《しらあわ》、──『我』なりき。──
ほのかに夜半《よは》にただよふ鐘の音の
光を纒《まと》ふまぼろし、──『我』なりき。

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*1:「さんずい」に「區」

*2:「さんずい」に「區」

*3:「さんずい」に「區」

閑古鳥

暁《あかつき》迫《せま》り、行く春夜はくだち、
燭影《しよくえい》淡くゆれたるわが窓に、
一声《ひとこゑ》、今我れききぬ、しののめの
呼笛《よぶこ》か、夜《よる》の別れか、閑古鳥。

ひと声聞きぬ。ああ否、我はただ、
(悵《いた》める胸の叫びか、重息《おもいき》の
はるかに愁ひの洞《ほら》にどよみ来て
おのづとかへる響か、ああ知らず。)
ただ知る、深きおもひの淵《ふち》の底、
見えざる底を破りて、何者か
わが胸つける刃《は》ありと覚ふのみ。

をさなき時も青野にこの声を
ききける日あり。今またここに聞く。
詩人の思ひとこしへ生くる如、
不滅のいのち持つらし、この声も。

永遠《とこしへ》! それよ不滅のしばたたき、
またたき! はたや、暫《しば》しのとこしなへ。
この生《せい》、この詩、(しばしのとこしなへ、)
或は消えめ、かの声消えし如、
消えても猶に(不滅のしばたたき、)
たとへばこの世終滅《をはり》のあるとても、
ああ我生《い》きむ、かの声生くる如。

似たりな、まことこの詩とかの声と。──
これげに、弥生《やよひ》鶯《うぐいす》春を讃《ほ》め、
世に充《み》つ芸《げい》の聖花《せいくわ》の盗《ぬす》み人《びと》、
光明《ひかり》の敵《かたき》、いのちの賊《ぞく》の子が
おもねり甘き酔歌《すゐか》の類ならず。
健闘《たゝかひ》、つかれ、くるしみ、自矜《たかぶり》に
光のふる里しのぶ真心の
いのちの血汐もえ立つ胸の火に
染めなす驕《ほこ》り、不断《ふだん》の霊の糧《かて》。
我ある限りわが世の光なる
みづから叫ぶ生《せい》の詩《し》、生《せい》の声。

さればよ、あはれ世界のとこしへに
いつかは一夜《ひとよ》、有情《うじやう》の(ありや、否)
勇士が胸にひびきて、寒古鳥
ひと声我によせたるおとなひを、
思ひに沈む心に送りえば、
わが生、わが詩、不滅のしるしぞと、
静かに我は、友《とも》なる鳥の如、
無限の生の進みに歌ひつづけむ。

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ほととぎす

   (甲辰六月九日、夏の小雨の涼けき禅房の窓に、白
   蘋の花など浮べたる水鉢を置きつつ、岩野泡鳴兄へ
   文を認めぬ。時に声あり、彷彿として愁心一味の調
   を伝へ来る。屋後の森に杜鵑の鳴く也。乃ち匆々と
   して文の中に記し送りける。)

若き身ひとり静かに凭る窓の
細雨《ほそさめ》、夢の樹影《こかげ》の雫《しづく》やも。
雫にぬれて今啼《な》く、古《いにし》への
ながきほろびの夢呼《よ》ぶほととぎす。
おお我が小鳥、ひねもす汝《な》が歌ふ
哀歌《あいか》にこもれ、いのちの高き声。──
そよ、我がわかき嘆きと矜《たか》ぶりの
つきぬ源、勇みとたたかひの
糧《かて》にしあれば、汝《な》が歌、我が叫び、
これよ、相似る『愁《うれい》』の兄弟《はらから》ぞ。
愁ひの力《ちから》、(おもへば、わがいのち)
黄金《こがね》の歌の鎖《くさり》とたえせねば、
ほろべる夢も詩人の嘆きには
あらたに生《い》きぬ。愁よ驕《ほこ》りなる。

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マカロフ提督追悼の詩

   (明治三十七年四月十三日、我が東郷大提督の艦隊
   大挙して旅順港口に迫るや、敵将マカロフ提督之を
   迎撃せむとし、愴惶令を下して其旗艦ぺトロバフロ
   スクを港外に進めしが、武運や拙なかりけむ、我が
   沈設水雷に触れて、巨艦一爆、提督も亦艦と運命を
   共にしぬ。)

嵐よ黙《もだ》せ、暗打つその翼、
夜の叫びも荒磯《ありそ》の黒潮《くろしほ》も、
潮にみなぎる鬼哭《きこく》の啾々《しうしう》も、
暫し唸《うね》りを鎮《しづ》めよ。万軍の
敵も味方も汝《な》が矛《ほこ》地に伏せて、
今、大水《おほみづ》の響に我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼を沈めて、千古の浪狂ふ、
弦月《げんげつ》遠きかなたの旅順口。

ものみな声を潜めて、極冬《こくたう》の
落日の威に無人の大砂漠
劫風絶ゆる不動の滅の如、
鳴りをしづめて、ああ今あめつちに
こもる無言の叫びを聞けよかし。
きけよ、──敗者《はいしや》の怨みか、暗濤の
世をくつがへす憤怒《ふんぬ》か、ああ、あらず、──
血汐を呑みてむなしく敗艦と
共に没《かく》れし旅順の黒【わう】*1裡《こくわうり》、
彼が最後の瞳にかがやける
偉霊のちから鋭どき生《せい》の歌。
ああ偉《おほ》いなる敗者よ、君が名は
マカロフなりき。非常の死の波に
最後のちからふるへる人の名は
マカロフなりき。胡天の孤英雄、
君を憶《おも》へば、身はこれ敵国の
東海遠き日本の一詩人、
敵《かたき》乍らに、苦しき声あげて
高く叫ぶよ、(鬼神も跼《ひざま》づけ、
敵も味方も汝《な》が矛地に伏せて、
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。)
ああ偉《おほ》いなる敗将、軍神の
撰《えら》びに入れる露西亜の孤英雄、
無情の風はまことに君が身に
まこと無情の翼をひろげき、と。

東亜の空にはびこる暗雲の
乱れそめては、黄海波荒く、
残艦哀れ旅順の水寒き
影もさびしき故国の運命に、
君は起《た》ちにき、み神の名を呼びて、──
亡びの暗の叫びの見かへりや、
我と我が威に輝やく落日の
雲路《うんろ》しばしの勇みを負ふ如く。

壮なるかなや、故国の運命を
担《にな》ふて勇む胡天の君が意気。
君は立てたり、旅順の狂風に
檣頭高く日を射《さ》す提督旗《ていとくき》。──
その旗、かなし、波間に捲きこまれ、
見る見る君が故国の運命と、
世界を撫《な》づるちからも海底に
沈むものとは、ああ神、人知らず。

四月十有三日、日は照らず、
空はくもりて、乱雲すさまじく
故天にかへる辺土の朝の海、
(海も狂へや、鬼神も泣き叫べ、
敵も味方も汝《な》が鋒地に伏せて、
マカマフが名に暫しは跼づけ。)
万雷波に躍りて、大軸を
砕くとひびく刹那に、名にしおふ
黄海の王者《わうじや》、世界の大艦も
くづれ傾むく天地の黒【わう】*2裡《こくわうり》、
血汐を浴びて、腕をば拱《こまぬ》ぎて、
無限の憤怒《ふんぬ》、怒濤のかちどきの
渦捲く海に瞳を凝らしつつ、
大提督は静かに沈みけり。

ああ運命の大海、とこしへの
憤怒の頭擡《かしらもた》ぐる死の波よ、
ひと日、旅順にすさみて、千秋の
うらみ遺《のこ》せる私密の黒潮よ、
ああ汝《なれ》、かくてこの世の九億劫、
生と希望と意力《ちから》を呑み去りて
幽暗不知の界《さかひ》に閉ぢこめて、
如何に、如何なる証《あかし》を『永遠の
生の光』に理《ことはり》示《しめ》すぞや。
汝《な》が迫害にもろくも沈み行く
この世この生、まことに汝《なれ》が目に
映《うつ》るが如く値《あたひ》のなきものか。

ああ休《や》んぬかな。歴史の文字《もじ》は皆
すでに千古の涙にうるほひぬ。
うるほひけりな、今また、マカロフが
おほいなる名も我身の熱涙に。──
彼は沈みぬ、無間の海の底。
偉霊のちからこもれる其胸に
永劫たえぬ悲痛の傷《きず》うけて、
その重傷《おもきず》に世界を泣かしめて。

我はた惑ふ、地上の永滅は、
力《ちから》を仰ぐ有情《うじやう》の涙にぞ、
仰ぐちからに不断の永生の
流転《るてん》現《げん》ずる尊ときひらめきか。
ああよしさらば、我が友マカロフよ、
詩人の涙あつきに、君が名の
叫びにこもる力《ちから》に、願くは
君が名、我が詩、不滅の信《まこと》とも
なぐさみて、我この世にたたかはむ。

水無月《みなづき》くらき夜半《やはん》の窓に凭り、
燭にそむきて、静かに君が名を
思へば、我や、音なき狂瀾裡、
したしく君が渦捲く死の波を
制す最後の姿を睹《み》るが如、
頭《かうべ》は垂《た》れて、熱涙せきあへず。
君はや逝《ゆ》きぬ。逝きても猶逝かぬ
その偉いなる心はとこしへに
偉霊を仰ぐ心に絶えざらむ。
ああ、夜の嵐、荒磯《ありそ》のくろ潮も、
敵も味方もその額《ぬか》地に伏せて
火焔《ほのほ》の声をあげてぞ我が呼ばふ
マカロフが名に暫しは鎮まれよ。
彼《かれ》を沈めて千古の浪狂ふ
弦目遠きかなたの旅順口。

(甲辰六月十三日) 

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*1:「さんずい」に「區」

*2:「さんずい」に「區」

金甌の歌

あけぼの光纒《まと》へる青雲《あをぐも》の、
ときはかきはに眠と暗となき、
幻、律《しら》べ、さまよふ聖宇《みや》の中、
新たに匂ふいのちのほのぼのと
我は生《うま》れき。大日《おほひ》の灼《かゞ》やきに
玉膸《ぎよくずゐ》湛《たゝ》ふ黄金の花瓶を
青摺《あをずり》綾《あや》のたもとに抱きつつ。

羅《うすもの》かへし、しづかに白竜《はくりゆう》の
石階《きざはし》踏めば、星皆あつまりて、
裳裾《もすそ》を縫《ぬ》へる緑のエメラルド。
歩み動けば、小櫛《をぐし》の弦《げん》の月、
白銀《しろがね》うるむ兜《かぶと》の前《まえ》の星《ほし》。
暾下《みをろ》すかなた、仄《ほの》かに讃頌《さんしよう》の
夜の声夢の下界をどよもしぬ。

白昼《まひる》の日射《ひざし》めぐれる苑《その》の夏、
かほる檸檬《れもん》の樹影《こかげ》に休らへば、
鬩《せめ》ぎたたかふ浮世の市《いち》超えて、
見わたすかなた、青波鳴る海の
自然の楽《がく》のひびきの起伏《おきふし》に
流るゝ光、それ我が金甌《きんわう》の
みなぎる匂ひ漂ふ影なりき。

青垣《あをがき》遶り、天《あめ》突《つ》く大山《おほやま》の
いただきそそる巌に佇めば、
世は夜《よる》ながら、光の隈《くま》もなく、
無韻のしらべ、朝《あした》の鐘の如、
胸に起りて千里の空を走せ、
山、河、郷《さと》も、舟路《ふねぢ》もおしなべて
投げたる影にみながら包まれぬ。

野川《のがは》氾濫《あふ》れて岸辺の雛菊の
小花泥水《ひみづ》になやめる姿見て、
あまりに痛き運命《さだめ》を我泣くや、
水にうつれる小花のおもかげに、
幻ふかく湛《たゝ》ふる金甌の
底にかがやく生火《いくひ》の文字《もじ》にして、
いのちの主《ぬし》の涙ぞ宿れりき。

想ひの翼ひまなく、梭《をさ》の如、
あこがれ、嘆き、勇みの経緯《たてぬき》に、
見ゆる、見えざるいのちの機《はた》織《お》れば、
天地《あめつち》つつみひろごる虛《きぬ》の中、
わが金甌《きんわう》のおもてに、栄光の
七燭《しちしよく》いてる不老《ふらう》の天の楽《がく》、
ほのかに浮びただよふ影を見ぬ。

海には破船《はせん》、山には魔の叫び、
陸《くが》なる罪の館《やかた》に災禍《わざはひ》の
交々《こもごも》起る嵐の夜半《よは》の窓、
戦慄《をののき》せまるまなこを閉《と》ぢぬれば、
あでなるさまや、胸なる金甌の
おもてまろらに光の香はみちて、
たえざる天《あめ》の糧《かて》をば湛えたる。

ああ人知るや、わが抱く金甌ぞ、
(そよわがいのち)尊とき神の影、
生《い》きたる道《ことば》、生きたる天の楽《がく》、
いのちの光、ひめたる『我』なりき。
涯《はて》なく限りなきこの天地《あめつち》の
力《ちから》を力《ちから》とぞする『彼』よ、げに
我が金甌の生火《いくひ》の髄《ずい》の水。

されば我がゆく路には、ものみなの
戦ひ、愁ひ、よろこび、怒り、皆
我と守れる心の閃《ひら》めきに
融《と》けて唯一《ひとつ》の生命《いのち》にかへるなる。
ああ我が世界、すなはち、人の、また
み神の愛と力《ちから》の世界にて、
眠《ねむり》と富《とみ》の入るべき国ならず。

天地《あめつち》知ろす源《みなもと》、創造の
聖宇《みや》の光に生れし我なれば、
わが声、涙、おのづと古郷《ふるさと》の
欠《か》くる事なきいのちと愛の音《ね》に、
見よや、天なる真名井《まなゐ》の水の如、
玉髄あふれつきせぬ金甌の
雫《しづく》流れて凝《こ》りなす詩《うた》の珠《たま》。

(甲辰六月十五日) 

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アカシヤの蔭

たそがれ淡き揺曳《さまよひ》やはらかに、
収《をさ》まる光暫しの名残なる
透影《すいかげ》投げし碧《みどり》の淵《ふち》の上、
我ただひとり一日《ひとひ》を漂へる
小舟《をぶね》を寄せて、アカシヤ夏の香の
木蔭《こかげ》に棹《かひ》をとどめて休《やす》らひぬ。

流れて涯《はて》も知らざる大川《おほかは》の
暫しと淀《よど》む翠江《みどりえ》夢の淵!
見えざる霊の海原花岸の
ふる郷《さと》とめて、生命《いのち》の大川に
ひねもす浮びただよふ夢の我!
夢こそ暫し宿れるこの岸に
ああ夢ならぬ香りのアカシヤや。

野末《のずへ》に匂ふ薄月《うすづき》しづかなる
光を帯びて、微風《そよかぜ》吹く毎に、
英房《はなぶさ》ゆらぎ、真白の波湧けば、
みなぎる薫《かほ》りあまきに蜜の蜂
群《む》るる羽音は暮れゆく野の空に
猶去りがての呟《つぶ》やき、夕《ゆふ》の曲《きよく》。
纜《ともづな》結《ゆ》ひて忘我《われか》の歩みもて、

我は上《のぼ》りぬ、アカシヤ咲く岸に。──
春の夜桜おぼろの月の窓
少女《をとめ》が歌にひかれて忍ぶ如。

ああ世の恋よ、まことに淀《よど》の上《へ》の
アカシヤ甘き匂ひに似たらずや。
いのちの川の夢なる青淵《あをぶち》に
夢ならぬ香《か》の雫《しづく》をそそぎつつ、
幻過ぐるいのちの舟よせて、
流るる心に光の鎖《くさり》なす
にほひのつきぬ思出結《むす》ぶなる。

淀める水よ、音なき波の上に
没薬《もつやく》撒《ま》くとしただるアカシヤの
その香《か》、はてなく流るる汝《な》が旅に
消ゆる日ありと誰かは知りうるぞ。
ああ我が恋よ、心の奥ふかく、
汝《なれ》が投げたる光と香りとの
(たとへ、わが舟巌《いはほ》に覆《くつが》へり、
或は暗の嵐に迷ふとも、)
沈む日ありと誰かは云ひうるぞ。

はた此の岸に溢るる平和《やはらぎ》の
見えざる光、不断の風の楽《がく》、
光と楽《がく》にさまよふ幻の
それよ、我が旅はてなむ古郷《ふるさと》の
黄金《こがね》の岸のとはなる栄光《えいくわう》と
異なるものと、誰かははかりえむ。
ああ汝《なれ》水よ、われらはふるさとの
何処なりしを知らざる旅なれば、
アカシヤの香に南の国おもひ、
恋の夢にし永遠《とは》なる世を知るも、
そは罪なりと誰かはさばきえむ。

ああ今、月は静かに万有《ものみな》を
ひろごり包み、また我心をも
光に融《と》かしつくして、我すでに
見えざる国の宮居に、アカシヤと
咲きぬるかともやはらぐ愛の岸、
無垢《むく》なる花の匂ひの幻に
神かの姿けだかき現《うつゝ》かな。

水も淀《よど》みぬ。アカシヤ香も増しぬ。
いざ我が長きいのちの大川に
我も宿らむ、暫しの夢の岸。──
暫しの夢のまたたき、それよげに、
とはなる脈《みやく》のひるまぬ進み搏《う》つ
まことの霊の住家《すみか》の証《あかし》なれ。

(甲辰六月十七日) 

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ひとつ家

にごれる浮世の嵐に我怒《いか》りて、
孤家《ひとつや》、荒磯《ありそ》のしじまにのがれ入りぬ。
捲き去り、捲きくる千古の浪は砕け、
くだけて悲しき自然の楽《がく》の海に、
身はこれ寂蓼児《さびしご》、心はただよひつつ、
静かに思ひぬ、──岸なき過ぎ来《こ》し方、
あてなき生命《いのち》の舟路《ふなぢ》に、何処へとか
わが魂孤《たまこ》舟《しう》の楫《かち》をば向けて行く、と。
夕浪懶《ものう》く、底なき胸のどよみ、
その色、音皆不朽《ふきう》の調和《とゝのひ》もて、
捲きては砕くる入日《いりひ》のこの束《つか》の間《ま》──
沈む日我をば、我また沈む日をば
凝視《みつ》めて叫ぶよ、無始《むし》なる暗、さらずば
無終《むしう》の光よ、渾《すべ》てを葬むれとぞ。

(甲辰六月十九日) 

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壁なる影

夜風《よかぜ》にうるほひ、行春《いくはる》淡き
有明燭《ありあけともし》の火影《ほかげ》ぞ揺れて、
ああ今、ほのかに、幻ふかく
起伏《おきふし》さだめぬ影こそ壁に。

詩歌《しいか》の愁ひに我が身は痩《や》せて、
くだつ夜、低唱《ていせう》、無興《ぶきやう》の窓に。
こは何、落ちくる壁なる影よ、──
静かに、静かに、捲きてはひらく。

たとへば、大海《おほうみ》青波鳴りて
涯《はて》なき涯にとただよふそれか。
或は、無終《むしう》の歴史の上に
湧き、また沈める流転《るてん》の跡か。

めぐれる影にと思は耽《ふけ》る。──
ああ今、我聞く、音なき波に
遠灘《とほなだ》どよもす響ぞこもれ、──
思の青渦《あをうづ》、とく、またゆるく。

とく、またゆるかに影こそ揺《ゆ》れば、
うかべる光に心は漂ふ。──
この影、幻、ああ聞きがたき
天海《あまうみ》『秘密』のそのおとづれか。

思は高めば、影また深く、
見えざる文《ふみ》こそ壁には照れる。──
幾夜の我が友、そよわがいのち、
秘密に泳《およ》げる我が影なりき。

燈火《ともしび》うするる。薄《うす》れよ。暗も
心の壁なる我が影消《け》さじ。
ああ我汝《な》に謝《しや》す、我が夜は明けば、
この影、まことの光に生きむ。

(甲辰六月二十日) 

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藻の香に染みし白昼《まひる》の砂枕《すなまくら》、
ましろき鴎《かもめ》、ゆたかに、波の穂を
光の羽《はね》にわけつつ、砕け去る
汀の【あわ】*1《あわ》にえものをあさりては、
わが足近く翼を休らへぬ。

諸手《もろて》をのべて、高らに吟《きん》ずれど、
鳥驚かず、とび去らず、
ぬれたる砂にあゆみて、退《しぞ》き、また
寄せくる波をむかへて、よろこびぬ。

つぶらにあきて、青海の
匂ひかがやく小瞳は、
真珠の光あつめし聖の壷《つぼ》。
はてなき海を家とし、歌として、
おのが翼を力《ちから》と遊べばか、
汝《な》が行くところ、瞳《ひとみ》の射る所、
狐疑《うたがひ》、怖れ、さげしみ、あなどりの
さもしき陰影《かげ》は隠れて、空蒼《あを》し。

ああ逍遥《さまよひ》よ、をきての網《あみ》の中
立ちつつまれてあたりをかへり見る
むなしき鎖解《と》きたる逍遥《さまよひ》よ、
それただ我ら自然の寵児《まなご》らが
高行く天《あめ》の世に似る路なれや。
来ても聞けかし、今この鳥の歌。──
さまよひなれば、自由《まゝ》なる恋の夢、
あけぼの開く白藻《しらも》の香に宿り、
起伏つきぬ五百重《いほへ》の浪の音に
光と暗はい湧きて、とこしへの
勇みの歌は、ひるまぬ生《せい》の楽《がく》。

ああ我が友よ、願ふは、暫しだに、
つかるる日なき光の白羽をぞ
翼なき子の胸にもゆるさずや。
汝《な》があるところ、平和《やはらぎ》、よろこびの
軟風《なよかぜ》かよひ、黄金《こがね》の日は照《て》れど、
人の世の国けがれの風長く、
自由の花は百年《もゝとせ》地に委して
不朽《ふきう》と詩との自然はほろびたり。

(甲辰八月十四日夜) 

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*1:「さんずい」に「區」

光の門

よすがら堪へぬなやみに気は沮《はゞ》み、
黒蛇《くろへみ》ねむり、八百千《やほち》の梟《ふくろふ》の
暗声《やみごゑ》あはす迷ひの森の中、
あゆみにつるる朽葉《くちば》の唸《うめ》きをも
罪にか誘ふ陰府《よみぢ》のあざけりと
心責めつつ、あてなくたどり来て、
何かも、どよむ響のあたらしく
胸にし入るに、驚き見まもれば、
今こそ立ちぬ、光の門《かど》に、我れ。

ああ我が長き悶《もだえ》の夜は退《しぞ》き、
香もあたらしき朝風吹きみちて、
吹き行く所、我が目に入るところ、
自由と愛にすべての暗は消え、
かなしき鳥の叫びも、森影も、
うしろに遥か谷間《たにま》にかくれ去り、
立つは自然の揺床《ゆりどこ》、しろがねの
砂布《し》きのべし朝《あした》の磯の上。

不朽《ふきう》の勇み漲る太洋《おほわだ》の
張りたる胸は、はてなく、紫の
光をのせて、東に、曙《あけ》高き
白幟《しらはた》のぼる雲際《くもぎは》どよもしぬ。
ああその光、──青渦《あをうづ》底もなき
海底《うなぞこ》守る秘密の国よりか。
はた夜と暗と夢なき大空《おほそら》の
紅玉《こうぎよく》匂ふ玉階《たまはし》すべり来し
天華《てんげ》のなだれ。或は我が胸の
生火《いくひ》の焔もえ立つひらめきか。──
蒼空《あをぞら》かぎり、海路《うなぢ》と天《あめ》の門《と》の
落ち合ふ所、日輪《にちりん》おごそかに
あたらしき世の希望に生れ出で、
海と陸《くが》とのとこしへ抱く所、
ものみな荒《すさ》む黒影《くろかげ》夜と共に
葬り了《を》へて、長夜《ながよ》の虚洞《うつろ》より、
わが路照らす日ぞとも、わが魂は
今こそ高き叫びに醒めにたれ。

明け立ちそめし曙光《しよくわう》の逆《さか》もどり
東の宮にかへれる例《ためし》なく
一度《ひとたび》醒《さ》めし心の初日影、
この世の極み、眠らむ時はなし。
ああ野も山も遠鳴《とほな》る海原も
百千《もゝち》の鐘をあつめて、新らしき
光の門《かど》に、ひるまぬ進軍《しんぐん》の
歓呼《くわんこ》の調の鬨《とき》をば作れかし。

よろこび躍り我が踏む足音に
驚き立ちて、高きに磯雲雀《いそひばり》
うたふや朝の迎《むか》への愛の曲。
その曲、浪に、砂《いさご》に、香藻《にほひも》に
い渡る生《せい》の光の声撒《ま》けば
わが魂はやく、白羽の鳥の如、
さまよふ楽《がく》の八重垣《やへがき》うつくしき
曙光の空に融け行き、翅《は》をのべて、
名たたる猛者《もさ》が弓弦《ゆんづる》鳴りひびき
射出す征矢《そや》もとどかぬ蒼穹《あをぞら》ゆ、
青海、巷《ちまた》、高山《たかやま》、深森《ふかもり》の
わかちもあらず、皆わがいとし児《ご》の
覚《さ》めたる朝の姿と臨《のぞ》むかな。

(甲辰八月十五日夜) 

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寂寥

片破月《かたわれづき》の淋しき黄の光
破窓《やれまど》洩《も》れて、老尼《らうに》の袈裟《けさ》の如、
静かに細うふるひて、読みさしの
書《ふみ》の上《へ》、さては黙座《もくざ》の膝に落ちぬ。
草舎《くさや》の軒《のぎ》をめぐるは千万《ちよろづ》の
なげきの糸《いと》のたてぬき織《を》り交《ま》ぜて
しらべぞ繁き叢間《くさま》の虫の歌。
夜の鐘遠く、灯《ともし》も消えがてに、
  ああ美しき名よ、寂蓼!
天地《あめつち》眠り沈みて、今こそは
汝《な》がいと深き吐息《といき》と脈搏《みやくはく》の、
ひとりしさめて物思《ものも》ふわが胸と
すべての根《ね》ざす地心《ちしん》にひびく時。

壁には淡き我が影。堆《うづ》たかく
乱れて膝をかこめる黄捲《くわうくわん》は
さながら遠き谷間の虚洞《うつろ》より
脱《ぬ》け出で来ぬる『秘密』の精《せい》の如。──
かかる夜幾夜、見えざる界《さかひ》より、
  美しき名よ、寂蓼!
汝《なれ》この窓を音なく、月影の
鈍色《にびいろ》被衣《かづき》纒《まと》ひてすべり入り、
なつかし妻の如くも親しげに
ほほゑみ見せて側《かた》へに座《すわ》りけむ。

見よ、汝《な》が吐息静かに吹く所、
人の心の曇《くも》りは拭《ぬぐ》はれて、
あたりの『物』の動きに、動かざる
まことの『我』の姿の明らかに
宿るを眺め、汝《な》が脈搏《みやくう》つ所、
すべての音は潜みて、ただ洪《ひろ》き
心の海に漂ふ大波の
寄せては寄する響のきこゆなる。
  美しき名よ、寂蓼!
ああ汝《なれ》こそは、鋭《するど》き斧《をの》をもて
この人生《じんせい》の仮面《かめん》を剥《は》ぎ去ると
命《めい》負《お》ひ来つる有情《うじやう》の使者《つかひて》か。

汝《な》がおとづれは必ず和《やは》らかに、
またいと早く、恰も風の如。
二人《ふたり》のあるや、汝《な》が眼《め》は一すじに
貫ぬくとてか、胸にとそそぎ来て、
その微笑《ほゝえみ》もまことに荘厳《おごそか》に、
たとへば百《もゝ》の白刃《しらは》の剣《つるぎ》もて
守れる暗の沈黙《しゞま》の森の如、
声なき言葉四壁にみちみちて、
おのづと下《くだ》る頭《かうべ》はまた起きず。
  美しき名よ、寂蓼!
かくて再び我をば去らむとき、
涙は涸《か》れて、袂《たもと》はうるほへど、
あらたに胸にもえ立つ生命の
石炭《うに》こそ汝《なれ》が遺《のこ》せる紀念《かたみ》なれ。

  美しき名よ、寂蓼!
甞ては我も多くの世の人が
厭《いと》へる如く、汝《なれ》をばいとへりき。
そはただ春の陽炎もゆる野に
とび行く蝶の浮きたる心には、
汝《な》が手のあまり霜には似たればぞ。
さはあれ、汝《なれ》やまことに涯もなき
大海にして、不断の動揺に、
真面目《まじめ》と、常に高きに進み行く
心の奥の鍵《かぎ》をぞ秘めたれば、
遂には深き崇高《けだか》き生命の
勇士の胸の門《かど》をばひらくなり。

  美しき名よ、寂蓼!
たとへば汝は秘密の古鏡《ふるかゞみ》。
人若し姿投《とう》ぜば、いろいろの
仮装《よそひ》はすべて、濡《ぬ》れたる草の葉の
日に乾《かは》く如、忽ち消えうせて、
おもてに浮ぶまろらの影二《ふた》つ、──
それ、かざりなき赤裸《せきら》の『我』と、また
『我』をしめぐる自然の偉《おほ》いなる
不朽の力《ちから》、生火《いくひ》の燃《も》ゆる門《かど》。
げに寂蓼《さびしみ》にむかひて語る時、
人皆すべて真《まこと》の『我』が言葉、
『我』が声をもて真《まこと》を語るなる。

  美しき名よ、寂蓼!
汝また長き端《はし》なき鎖《くさり》にて、
とこしへ我を繋《つな》ぎて奴隷《しもべ》とす。
家をば出でて自然に対す時、
うづ巻く潮《しほ》の底より、天《あま》そそる
秀峰《ほつみね》高き際《きは》より、さてはまた、
黄に咲く野辺の小花《をばな》の葉蔭より
雀躍《こをど》り出でて、胸をば十重二十重《とへはたへ》
犇《ひし》と捲きつつ、尊とき天《あめ》の名の
現示《あらはれ》の前《まえ》、頭《かうべ》を下げしむる
それその力、ああまた汝にあり。

  美しき名よ、寂蓼!
恋する者の胸より若しも汝が
おとづれ絶たば、言語《ことば》も闡《ひら》きえぬ
心の奥の叫びを語るべき
慰安《いあん》の友の滅びて、彼遂に
たへぬ悩みに物にか狂ふべし。
またかの善《よき》と真《まこと》を慕《した》ふ子に、
若し汝行きて、みづから自らに
教ふる時を与ふる勿《なか》りせば、
遂には彼の心も枯るるらむ。

  美しき名よ、寂蓼!
寂蓼《さびしみ》人を殺すと誰か云ふ。
霊なきむくろ、花なき醜草《しこくさ》は
汝がおごそかの吐息に、げに或は
死にもやすべし。朽木《くちき》に花咲かず。
ああ寂蓼よ、汝が脈搏つところ、──
我と我との交はる所にて、
うちめぐらせる霊気の 八重垣《やへがき》に
詩歌《しいか》の花の恋しきみ園あり。
そこに我が魂しづかにさまよふや、
おのづと起る唸《うめ》きの声は皆、
歴史と堂と制規《さだめ》を脱《ぬ》け出でて、
親しく自然を司《つかさ》どる
慈光《じくわう》の神に捧ぐる深祈祷《ふかいのり》
あふるる涙、それまた世の常の
涙にあらず、まことの生命の
源ふかく帰依《きえ》する瑞《みづ》の露。

  美しき名や、寂蓼!
汝こそげにも心の在家《ありか》にて、
見えぬ奇《くし》かる界《さかひ》に門《かど》ひらき、
またこの生けるままなる世の態《さま》に
却《かへ》りて大《おほ》き霊怪《くしび》の隠《かく》れ花《ばな》
かしこに、ここに、各自《かたみ》の胸にさへ
咲けるを示し、無云の教垂れ、
想ひをひきて自在の路告《つ》ぐる
豊麗無垢の尊とき霊の友《とも》。
ああこの世界ひとりの『人』ありて、
若し我が如く、美し寂蓼の
腕《うで》に抱かれ、処《ところ》と時を超《こ》え、
あこがれ泣くを楽しと知るあらば、
我この月の光に融け行きて、
彼にか問《と》はむ、『栄華《えいぐわ》と黄金《わうごん》の
まばゆき土《つち》の値《あたひ》や幾何《いくばく》』と。

(甲辰八月十八日夜) 

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黄金向日葵

我《わ》が恋は黄金《こがね》向日葵《ひぐるま》、
曙いだす鐘にさめ、
夕の風に眠るまで、
日を趁《お》ひ光あこがれ、まろらかに
眩《まば》ゆくめぐる豊熱《ほうねつ》の
彩《あや》どり饒《おほ》きこがねの花なれや。

これ夢ならば、とこしへの
さめたる夢よ、こがねひぐるま。
これ影ならば、あたたかき
瑞雲《みづぐも》まとふ照日《てるひ》の生《い》ける影。

円《まろ》らかなれば、天蓋《てんがい》の
遮《さへぎ》りもなき光の宮の如。
まばゆければぞ、王者《わうじや》にすなる如、
百花《もゝはな》、見よや芝生《しばふ》にぬかづくよ。

今はた、似たり、かなたの日輪《にちりん》も、
わが恋の日にあこがれて
ひねもすめぐるみ空の向日葵《ひぐるま》に。

(八月二十二日) 

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我が世界

世界の眠り、我ただひとり覚《さ》め、
立つや、草這《は》ふ夜暗《やあん》の丘《おか》の上。
息をひそめて横たふ大地《おほつち》は
わが命《めい》に行く車《くるま》にて、
星鏤《ちりば》めし夜天《やてん》の浩蕩《かうたう》は
わが被《かづ》きたる笠の如。

ああこの世界、或は朝風の
光とともに、再びもとの如、
我が司配《つかさどり》はなるる時あらむ。
されども人よ知れかし、我が胸の
思の世界、それこの世界なる
すべてを超ゑし不動《ふどう》の国なれば、
我悲しまず、また失《うしな》はず、
よしこの世界、再びもとの如、
蠢《うごめ》く人の世界となるとても。

(八月二十二日) 

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黄の小花

夕暮野路《のぢ》を辿りて、黄に咲ける
小花《をばな》を摘《つ》めば、涙はせきあへず。

ああ、ああこの身この花、小《ちい》さくも
いのちあり、また仰《あふ》ぐに光あり。
この野に咲ける、この世に捨《す》てられし、
運命《さだめ》よ、いづれ大慈悲《おほじひ》の
かくれて見えぬ恵みの業《わざ》ならぬ。

よし我、黄なる花の如、
霜にたをるる時あるも、
再び、もらす事なき天《あめ》の手《て》に
還《かへ》るをうべき幸もてり。

ああこの花の心を解《と》くあらば
我が心また解《と》きうべし。
心の花しひらきなば、
またひらくべし、見えざる園の門《かど》。

(八月二十二日) 

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君が花

君くれなゐの花薔薇《はなさうび》、
白絹《しらぎぬ》かけてつつめども、
色はほのかに透《す》きにけり
いかにやせむとまどひつつ、
墨染衣袖かへし
掩へどもともいや高く
花の香りは溢れけり。

ああ秘めがたき色なれば、
頬《ほゝ》にいのちの血ぞ熱《ほて》り、
つつみかねたる香りゆゑ
瞳《ひとみ》に星の香《か》も浮きて、
佯《いつ》はりがたき恋心《こひごゝろ》、
熄《き》えぬ火盞《ほざら》の火の息に
君が花をば染めにけれ。

(九月五日夜) 

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波は消えつつ

波は消えつつ、砕けつつ
底なき海の底より湧き出でて、
朝より真昼《まひる》、昼《ひる》より夜に朝に
不断《ふだん》の叫びあげつつ、帯《をび》の如、
この島根《しまね》をば纒《まと》ふなり。

ああ詩人《うたびと》の興来《きようらい》の
波も、消えつつ、砕けつつ。
はかり知られぬ『秘密』の胸戸《むなど》より、
劫風《ごふふう》ともに千古の調にして、
不滅の教宣《の》りつつ、勇ましく
人の心の岸には寄するかな。

(九月十二日夜) 

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ああ君こそは、青淵《あをぶち》の
流転《るてん》の波に影浮けて
しなやかに立つ柳《やなぎ》なれ。

流転《るてん》よ、さなり流転よ、それ遂に
夢ならず、また影ならず、
照る世の生日《いくひ》進み行く
生命《いのち》の流れなればか、春の風
燻《くん》じて波も香にをどり、
ひと雨毎《あめごと》に梳《くしけ》づる
愛の小櫛《をぐし》の色にして、
見よ今、枝の新装《にひよそひ》、
青淵波もたのしげに
世は皆恋の深緑《ふかみどり》。

(九月十四日) 

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愛の路

高きに登り、眺むれば、
乾坤《けんこん》愛の路通ふ
青海原のはてにして、
安らかに行く白帆影。──
  波は休まず、撓《たゆ》まずに
  相噛《か》みくだけ、動けども、
  安らかに行く白帆影。

路のせまきに、せはしげに
蠢《うご》めく人よ、来て見よや、──
  花を虐《しひた》げ、景《けい》を埋《う》め、
  直《すぐ》なるみちをつくるとて、
  狭き小暗さ愁嘆《しうたん》の
  牢獄《ひとや》に落ちし子よ、見よや、──
大海みちはなくして、縦横《じうわう》の
みちこそ開け、愛の路。

(九月十四日) 

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落ちし木の実

秋の日はやく母屋《おもや》の屋根に入り、
ものさびれたる夕をただひとり
紙障《しさう》をあけて、庭面《にはも》にむかふ時、
庭は風なく、落葉の音もたえて、
いと静けきに、林檎《りんご》の紅《あけ》の実《み》は
かすかに落ちぬ、波なき水潦《みづたまり》。

夕のあはき光は箒目《はゝきめ》の
ただしき地《つち》に隈《くま》なくさまよひて、
猶暮れのこるみ空の心のみ
一きは明《あか》くうつせる水潦《みづたまり》、
今色紅《あけ》の木《こ》の実《み》の落ち来しに
にはかに波の小渦《さゝうづ》立てたれど、
やがてはもとの安息《やすらぎ》うかべつつ、
再び空の心を宿しては、
その遠蒼《とをあを》き光に一粒《いちりふ》の
りんごのあたり縁《ふち》どりぬ。

ああこの小さき木の実よ、八百千歳《やほちとせ》、
かくこそ汝《なれ》や静かに落ちにけむ。
またもも年《とせ》の昔に、西人《にしびと》が
想ひに耽る庭にとおとなひて、
尊とき神の力《ちから》の一鎖《ひとくさり》、
かくこそ落ちて、彼《かれ》には語りけめ。

我今人のこの世のはかなさに
つらさに泣きて、運命《さだめ》の遠き路、
いづこへ、若《わか》きかよはきこのむくろ
運《はこ》ばむものと秘《ひそ》かに惑《まど》へりき。
落ちぬる汝《なれ》を眺めて、我はまた、
辛《つら》からず、はたはかなき影ならぬ
たふとき神の力の世をば知る。

汝《なれ》何故にかくまで静けきぞ、──
人はみづから運命《さだめ》に足《た》りかねて、
さびしき広みはてなき暗の野の
躓《つまづ》き、にがき悲哀《ひあい》の実《み》を喰《は》むに、
何故汝のかくまで安けきぞ、──
足《た》るある如く、落ちては動かずに
心に何か深くも信頼《たよ》る如。

夜の歩みは漸く迫《せま》り来て、
羽弱《はよわ》か、群《むれ》に後れし夕鴉《ゆふがらす》
寂《さび》ある声に友呼ぶ高啼《たかな》きや、
水面《みのも》にうきしみ空の明《あか》るみも
消えては、せまきわが庭黝《くろず》みぬ。
ああこの暗の吐息のたゞ中《なか》よ、
灯《ひ》ともす事も、我をも忘《ぼう》じては、
よみがへりくる心の光もて
か黒き土《つち》のさまなる木の実をば
打眺めつつ、静かに跼《ひざま》づく。

(九月十九日) 

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秘密

花蝋《はなろふ》もゆる御簾《みす》の影、
琴柱《ことぢ》をおいて少女子《をとめご》の
小指《をゆび》やはらにしなやかに、
絃《いと》より絃に転《てん》ずれば、
さばしり出る幻の
人《ひと》酔《よ》はしめの楽《がく》の宮、
ああこの宮を秘《ひ》め置きて
とこあらたなる琴の胸、
秘密ならずと誰か云ふ。

八千年《やちとせ》人の手《て》に染《そ》まぬ
神の世界の大胸に
深くするどくおごそかに
我が目うつれば、ちよろづの
詩《うた》は珠《たま》なし清水《しみづ》なし、
光の川と溢れくる。
ああこの水の美しく、
休《やす》む事なく湧き出《づ》るを
秘密なりとは誰か知る。

(九月十九日夜) 

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あゆみ

始めなく、また終りなき
時を刻むと、柱なる
時計の針はひびき行け。
せまく、短かく、過ぎやすき
いのち刻むと、わが足《あし》は
ひねもす路を歩むかも。

(九月十九日夜) 
『秋風高歌』畢 

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