江上の曲

水緩《ゆる》やかに、白雲《しらくも》の
影をうかべて、野を劃《かぎ》る
川を隔《へだ》てて、西東、
西の館《やかた》ににほひ髪
あでなる姫の歌絶えず、
東の岸の草蔭に
牧《まき》の子ひとり住《すま》ひけり。

姫が姿は、弱肩《よわがた》に
波うつ髪の緑《みどり》なる
雲を被《かづ》きて、白龍《はくりゆう》の
天《あめ》の階《はし》ふむ天津女《あまつめ》が
羽衣ぬげるたたずまひ。
牧の子が笛、それ、野辺の
白き羊がうら若き
瞳をあげて大天《おほあめ》の
円《まろ》らの夢にあこがるる
おもひ無垢《むく》なる調なりき。

されども川の西東、
水の碧《みどり》の胸にして、
月は東に、日は西に
立ちならびたる姿をば
静かに宿す時あれど、
二人が瞳、ひと日だに
相逢ふ事はなかりけり。

ふたりが瞳ひと日だに
あひぬる事はあらざれど、
小窓《をまど》、桜の花心地《はなごゝち》
春日《はるび》燻《くん》ずる西の岸、
とある日、姫が紫の
とばりかかげて立たす時、
緑草野《みどりくさの》の丘《をか》遠く
いとも和《やは》らに、たのしげに
春の心のただよひて、
糸遊《いという》なびく野を西へ、
水面をこえて浮びくる
牧の子が笛聞きしより、
何かも胸に影遠き
むかしの夢の仄《ほの》かにも
おとづれ来《く》らむ思ひにて、
昼《ひる》はひねもす、日を又日、
姫があでなる俤《おもかげ》は、
広野《ひろの》みどりのあめつちを
枠《わく》のやうなる浮彫《うきぼり》と、
やかたの窓に立たしけり。

また、夕されの露の路、
羊を追ふて牧の子が
草の香深き岸の舎《や》に
かへり来ぬれば、かすかにも
薄光《うすあかり》さす川面《かはおも》に
さまよひわたる歌声の
美《うるは》し夢に魂ひかれ、
ただ何となくその歌の
主《ぬし》を恋しみ、独木舟《うつろぶね》、
朽木《くちき》の杭《くへ》に纜《ともづな》を
解《と》きて、夜な夜な牧の子は
西の岸にと漕《こ》ぎ行きぬ。

ああ、ああされど日を又夜、
ふたりが瞳、ひとたびも
相あふ時はあらざらき。
姫が思ひはただ遠き
昼《ひる》の野わたるたえだえの
笛のしらべの心にて、
牧の子が恋、それやはた、
帳《とばり》ゆらめく窓洩れて
灯影《ほかげ》とともにゆらぎくる
清《すゞ》しき歌の心のみ。

姫は夢見ぬ、『かの野辺の
しらべぞ、夜半《よは》のわが歌の
天《あめ》よりかへる反響《こだま》なれ。』
また夢見けり、牧の子も、
『かの夜な夜なの歌こそは、
白昼《まひる》わが吹く小角《くだ》の音の
地心《ちしん》に泌《し》みし遺韻《なごり》よ。』と。

牧の子は野に、いと細き
希望《のぞみ》の節《ふし》の笛を吹き、
姫はさびしく、紫の
とばりを深み、夜半《よは》の窓、
人なつかしのあこがれの
柔《やは》き歌声うるませて、
かくて日毎に姫が目は
牧野《まきの》にわりし、夜な夜なに
牧の子が漕ぐうつろ舟
西なる岸につながれて、
桜花散る行春《ゆくはる》や、
行きて、いのちの狂ひ火の
狂ふ焔《ほむら》の深緑《ふかみどり》、
ただ燃えさかる夏の風
野こえてここにみまひけり。

ああ夏なれば、日ざかりの
光にきほふ野の羊、
草踏み乱し、埒《らち》を超《こ》え、
泉の縁《ふち》のたはぶれに
鞭《むち》ををそれぬこをどりや、
西の岸にも、葉桜に、
南蛮鳥《なんばんてう》は真夏鳥《まなつどり》、
来て啼く歌は、かがやかの
生《い》ける幻誘ふ如、
ふる里《さと》とほき南《みんなみ》の
燃《も》えにぞ燃ゆる恋の曲《きよく》、
照る羽つくろひ、瞳《め》をあげて、
のみど高らに伝《つた》ふれど、
さびしや、二人、日を又夜、
相見る時はあらざりき。
胸に渦巻くいのちの火
その焔《ほむら》にぞ燬《や》かれつつ、
ああ燬《や》かれつつ、かくて猶、
捉《とら》へがたなき夢追ふて、
水ゆるやかの大川の
(隔《へだ》てよ、さあれ浮橋《うきはし》の)
西と東に、はかなくも
影に似る恋つながれぬ。

夏また行きぬ。かくて猶、
ああ夢遠きあこがれや、
はかなき恋はつながれぬ。
牧野《まきの》の草に、『秋』はまづ
野菊と咲きて、小桔梗《をぎきやう》に、
水引草にいろいろの
露染衣《つゆぞめごろも》、虫の音も、
高吹《たかふ》く風も追々《おひおひ》に、
ひと葉ひと葉と水に散る
岸の桜の紅葉《もみぢ》さへ、
夢追ふ胸になつかしく
また堪へがたき淋しさを
この天地にさそひ来ぬ。

ひと夜、月いと明《あか》くして、
咽《むせ》ぶに似たる漣《さざなみ》の
岸の調《しらべ》も何となく、
底ひ知られぬ水底《みなぞこ》の
秘めたる恋の音にいづる
おとなひの如聞かれつつ、
まろらの月のおもて、また
わが心をばうつすとも
見えて、ああその恋心《こひごゝろ》
いと堪へがたき宵なりき。
牧の子が舟ゆるやかに
東の岸をこぎ出でぬ。

高窓洩れて、夢深き
月にただよふ姫が歌、
今宵ことさら澄み入りて、
ああ大川も今しばし
流れをとどめ、天地の
よろづの魂もその声の
波にし融《と》けて浮き沈み、
ただ天心《てんしん》の月のみか
光をまして、その歌の
切《せち》なる訴《うた》へ聴くが如、
この世の外の白鳥の
かがなき高き律《しら》べもて、
水面《みのも》しづかにいわたれば、
しのびかねてや、牧の子は
擢《かひ》なげすてて、中流《ちうりう》の
水にまかする独木舟《うつろぶね》、
舟をも身をも忘れ果て、
息もたえよと一管《ひとくだ》の
笛に心を吹きこみぬ。

たちまち姫が歌やみて、
窓はひらけぬ。月影に
今こそ見ゆれ、玲瓏《らいろう》の
光に浮ぶ姫が面《おも》。
小手《こて》をばあげて招《まね》げども、
擢《かひ》なき舟はとどまらず。
舟も流れて、人も流れて、
笛のしらべも遠のくに、
呼ぶ名知らねば、姫はただ
慣《な》れにし歌をうたひつつ、
背《せ》をのびあがり、のびあがり、
あなやと思ふまたたきに、
袖ひらめきて、窓の中
姿は消えぬ。川のおも
月は百千《もゝち》にくだかれぬ。

かくてこの夜の月かげに
姫がみ魂も、笛の音も
はてなき天《あめ》にとけて去り、
かなしき恋の夢のあと
独木《うつろ》の舟ともろともに、
人知りがたき海原の
秘密の底に流れけり。

(甲辰九月十七日夜) 

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枯林

うち重《かさ》む楢《なら》の朽葉《くちば》の
厚衣《あつごろも》、地《つち》は声なく、
雪さへに樹々《きゞ》の北蔭《きたかげ》
白銀《しろがね》の楯《たて》に掩へる
冬枯の丘の林に、
日をひと日、吹き荒《すさ》みたる
凩《こがらし》のたたかい果《は》てて、
肌寒《はだざむ》の背《そびら》に迫る
日落《ひお》ち時《どき》、あはき名残《なごり》の
ほころびの空の光に
明《あか》に透く幹《みき》のあひだを
羽《はね》鳴らし移りとびつつ、
けおさるる冬の沈黙《しゞま》を
破るとか、いとせはしげに、
羽強《はねづよ》の胸毛《むなげ》赤鳥《あかどり》
山の鳥小さき啄木鳥《きつつき》
木を啄《つゝ》く音を流しぬ。

さびしみに胸を捲《ま》かれて、
うなだれて、黄葉《きば》のいく片《ひら》
猶のこる楢《なら》の木下《こした》に
佇めば、人の世は皆
遠のきて、終滅《をはり》に似たる
冬の晩《くれ》、この天地に、
落ちて行く日と、かの音と、
我とのみあるにも似たり。

枝を折り、幹を撓《たわ》めて
吹き過ぎし破壊《はゑ》のこがらし
あともなく、いとおごそかに、
八千《やち》とせの歴史《れきし》の如く、
また広き墓の如くに、
しじまれる楢の林を
わが領《りよう》と、寒さも怖《を》ぢず、
気負《きお》ひては、音よ坎々《かんかん》、
冬木《ふゆき》立《だ》つ幹をつつきて
しばらくも絶間《たえま》あらせず。
いと深く、かつさびれたる
その響き遠くどよみて、
山彦は山彦呼びて、
今はしも、消えにし音と
まだ残る音の経緯《たてぬき》
織《を》りかはす楽《がく》の夕浪《ゆふなみ》、
かすかなるふるひを帯びて、
さびしみの潮路《うしほぢ》遠く、
林こえ、枯野をこえて、
夕天《ゆふぞら》に、また夕地《ゆふづち》に
くまもなく溢れわたりぬ。

われはただ気も遠々《とほどほ》に、
痩肩《やせがた》を楢にならべて、
骨の如、動きもえせず、
目を瞑《と》ぢて、額《ぬか》をたるれば、
かの響き、今はた我の
さびしみの底なる胸を
何者か鋭《と》きくちはしに
つつきては、霊《たま》呼びさます
世の外《ほか》の声とも覚《おぼ》ゆ。

ああ我や、詩《うた》のさびし児《ご》、
若うては心よわくて、
うたがひに、はた悲哀《かなしみ》に
かく此処《こゝ》に立ちもこそすれ。
今聞けよ、小《ちひ》さき鳥に、──
いのちなき滅《めつ》の世界に
ただひとり命《めい》に勇みて、
ひびかすは心のあとよ、
生命《せいめい》の高ききほひよ。
強《つよ》ぶるふ羽のうなりは
勝ちほこる彼《かれ》の凱歌《がいか》か、
はた或は、我をあざける
矜《たかぶ》りの笑ひの声か。
かく思ひわが頤《おとがひ》は
いや更に胸に埋《うま》りぬ。
細腕《ほそうで》は枯枝なして
ちからなく膝辺《ひさべ》にたれぬ。
しづかにも心の絃《いと》に
祈《いの》りする歌も添ひきぬ。

日は既《すで》に山に沈みて
たそがれの薄影《うすかげ》重く、
せはしげに樹々《きゞ》をめぐりし
啄木鳥《きつつき》は、こ度《たび》は近く、
わが凭《よ》れる楢の老樹《おいき》の
幹に来て、今日《けふ》のをはりを
いと高く膸《ずゐ》に刻みぬ。

(甲辰十一月十四日) 

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天火盞

恋は、天照《あまて》る日輪《にちりん》の
みづから焼けし蝋涙《ろふるい》や、
こぼれて、地に盲《し》ひし子が
冷《ひえ》にとぢける胸の戸の
夢の隙《すき》より入りしもの。

夢は、夢なる野の小草、
草が天《あま》さす隙間《すきま》より
おちし一点《ひとつ》の火はもえて、
生野《いくの》、生風《いくかぜ》、生焔《いくほむら》、
いのちの野火《のび》はひろごりぬ。

日光《ひかげ》うけては向日葵《ひぐるま》の
花も黄金の火の小笠《をがさ》。
燬《や》かれて我も、胸もゆる
恋のほむらの天火盞《あまほざら》、
君が魂をぞ焼きにける。

(甲辰十一月十八日) 

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壁画

破壊《はゑ》が住みける堂の中、
讃者《さんじや》群れにしいにしへの
さかえの色を猶とめて
壁画《かべゑ》は壁に虫ばみぬ。
おもひでこそは我胸の
かべゑなるらし。熄《き》えぬ火の
炎のかほり伝へつつ、
沈黙《しゞま》に曳《ひ》ける恋の影。

古《ふ》りぬと壁画こぼちなば、
たえぬ信《まこと》のいのちしも
何によりてか記《しる》すべき。
虫ばみぬとて思出の
糸をし断たば、如何にして、
聖《きよ》きをつなぐ天の火の
光に、かたき恋の戸に、
心の城を守るべき。

(甲辰十一月十八日)

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炎の宮

女《をみな》は熱にをかされて
終焉《いまは》の床に叫ぶらく、──
『我は炎《ほのほ》の宮を見き。
宮は、初めは生命の
緑にもゆる若き火の、
たちまちかはる生火渦《いくほうづ》、
赤竜《せきりゆう》をどる天塔《てんたふ》や。
見ませ今はた漸々《やうやう》に、
ああ我が夫《つま》よ、神々《かうがう》し
御燭《みあかし》に咲く黄の花と
もゆる炎の我が宮を。
やがては融《と》けて白光《びやくわう》の
雲輪《うんりん》い照る日とならば、
君をつつみて地の上に
天《あめ》の新宮《にひみや》立ちぬべし。』

『見ませ、』と云ふに、『何処《いづこ》に、』と
問《と》へば、『此処《こゝ》よ、』と、真白《ましろ》なる
腕《かひな》に抱く玉の胸。──
胸は、いまはの息深く、
愛の波、また死《し》の波の
寄せてはかへすときめきを
照らすは月の白き影。

(甲辰十一月十八日) 

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のぞみ

   一

やなぎ洩る
月はかすかに
額《ぬか》を射て、ほの白し。
かすかなる『のぞみ』の歌は、
砂原にうちまろぶ
若人《わかうど》の琴にそひぬ。

つきかげは
やや傾ぶきぬ。
川柳《かはやぎ》に風やみぬ。
おもへらく、ああ我が望み、
かたぶきぬ、衰ろへぬ。
夢のあと、あはれ何処《いづこ》。

   二

月かげの
沈むにつれて、
白き額《ぬか》また垂《た》れぬ。
ああいのち、そはかの薔薇《さうび》、
蕾《つぼみ》なる束《つか》の間《ま》の
まだ咲かぬ夢の色か。

あるは又
なげきの丘に
ふと萌《も》えし夢小草《ゆめをぐさ》
根をひたすなげきの水に
培《つちか》はれ、かなしみの
犠《にへ》と咲く黄の小花か。

わが望み、
(夢の起伏《おきふし》、)
ゆめなれば、砂の上の
身は既に夢の残骸《なきがら》、
かたぶきぬ、おとろへぬ、
夢のあと、あはれいづく。

   三

月落ちて、
心沈みて、
声もなき暗の中、
琴は猶、のこる一絃《ひといと》、
雲路《くもぢ》にも星一つ、
『のぞみ』をば地にたたず。

たれし額《ぬか》、
ややにあがりぬ。
彼は云ふ、わが望み、
夢ならば永世《とこよ》の夢よ、
うつり行く『時』の影、
起伏は皆夢ぞと。

わかうどは
されたる絃《いと》を
星かげにつなぎつつ、
起《た》ちあがり、又勇ましく
ほほゑみて、砂の原
趁《お》ひ行きぬ、生命《いのち》の影を。

(甲辰十一月十九日) 

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眠れる都

   (京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を
   開けば、竹林の突下、一望甍の谷ありて眼界を埋め
   たり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に
   月照りて、永く山村僻陬の間にありし身には、いと
   珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて匆々筆を染め
   けるもの乃ちこの短調七聯の一詩也。「枯林」より
   「二つの影」までの七編は、この甍の谷にのぞめる
   窓の三週の仮住居になれるものなりき。)

鐘鳴りぬ、
いと荘厳《おごそか》に、
夜は重し、市《いち》の上。
声は皆眠れる都
瞰下せば、すさまじき
野の獅子《しゝ》の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧《きり》の巨浪《おほなみ》、
白う照る月影に
氷《こほ》りては、市を包みぬ。
港《みなと》なる百船《もゝふね》の
それの如、燈影《ほかげ》洩《も》るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後《をはり》の日
近づける血汐《ちしほ》の城《しろ》か。
夜の霧は、墓《はか》の如、
ものみなを封《ふう》じ込《こ》めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地《あめつち》を霧は隔《へだ》てて、
照りわたる月かげは
天《あめ》の夢地にそそがず。

声もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、露のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮《くろしほ》のそのどよみと。

ああ声は
昼《ひる》のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸《うね》りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名残の声か。

我が窓は、
濁れる海を
遶らせる城の如、
遠寄《とほよせ》に怖《おそ》れまどへる
詩《うた》の胸守らつつ、
月光を隈《くま》なく入れぬ。

(甲辰十一月廿一日夜) 

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二つの影

浪の音《ね》の
楽《がく》にふけ行く
荒磯辺《ありそべ》の夜《よる》の砂、
打ふみて我は辿りぬ。
海原にかたぶける
秋の夜の月は円《まろ》し。

ふと見れば、
ましろき砂に
影ありて際《きは》やかに、
わが足の歩みはこべば、
影も亦歩みつつ、
手あぐれば、手さへあげぬ。

とどまれば、
彼もとまりぬ。
見つむれど、言葉なく
ただ我に伴《とも》なひ来る。
目をあげて、空見れば、
そこにまた影ぞ一つ。

ああ二《ふた》つ、
影や何なる。
とする間《ま》に、空の影、
夢の如、消えぬ、流れぬ。
海原に月入りて、
地の影も見えずなりぬ。

我はまた
荒磯《ありそ》に一人。
ああ如何に、いづこへと
消えにしや、影の二つは。
そは知らず。ただここに。
消えぬ我、ひとり立つかな。

(甲辰十一月廿一日夜) 

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夢の宴

   一

幻にほふ花染《はなぞめ》の
朧《おぼろ》や、卯月《うつき》、夜を深み、
春の使《つかひ》の風の児《こ》は
やはら光翅《つやば》の羽衣を
花充《み》つ枝にぬぎかけて、
熟睡《うまい》もなかの苑《その》の中
千株桜《ちもとざくら》の香の夢の
おぼろをおぼろ、月ぞ照る。

   二

ここよ、これかのおん裾《すそ》の
縺《もつ》れにゆらぐ夢の波
曳きて過ぎます春姫が、
供奉《くぶ》の花つ女《め》つどはせて、
明日《あす》の浄化《じやうげ》のみちすじを
評定《はかり》したまふ春の城。
春は日ざかる野にあらで
夢みて夢を趁《お》ふところ。

   三

さりや、万枝《ばんし》の花衣、
新映《にひばえ》つくる桜樹《さくらぎ》の
かげに漂ふ讃頌《さんしよう》も
声なき夢の声にして、
かほり、はたそれ、この国の
温《ぬる》みよ、歌よ、彩波《あやなみ》よ。
まろらの天《あま》の影こそは
舞ふに音なきおぼろなれ。

   四

『梅』は北浜《きたはま》海人《あま》が戸へ。
『柳』は、玉頬《たまほ》ゆたかなる
風の児《こ》を率《ゐ》て、狭野《さぬ》の辺《べ》の
発句《ほく》の翁《おきな》の門を訪へ。
『さくら』と『桃』は殿軍《しんがり》の
女《め》の子《こ》をここにつどへよと、
評定《はかり》のあとに姫神
下知《げち》それぞれにありぬれば、
今宵のわかれ、いざやとて、
夢いと深き歓楽《くわんらく》の
宴《うたげ》は春のいのちかも。
しろがね黄金すずやかに
つどひの鳥笛仄《とぶえほの》に鳴《な》り、
苑は『さくら』の音頭《おんど》より
ゆるる天部《てんぶ》の夢の歌。

   五

見れば、吹きみつ夢の花、
桜のかげの匂ひより
つどひ寄せたるものの影、──
和魂《にぎたま》、人のうまいより
のがれて、暫し逍遥《さまよ》ふか、──
あゆみ軽《かろ》らに、やはらかに、
蹠《あなうら》つちをはなれつつ、
裸々《らゝ》の美肌《うまはだ》ましろなる
乳房《ちぶさ》ゆたかに月吸《す》ひて、
百人《もゝたり》、千人《ちたり》、万人《よろづたり》、
我も我もと春姫が
小姓《こしやう》の撰《えり》に入らむとか、
つどひよせては、やがてかの
花つ女《め》どもに交《まじ》りつつ、
舞《まひ》よ、謡《うたひ》よ、耻《はぢ》もなき
ゆめの苑生《そのふ》の興《きよう》なかば。

   六

もつれつ、とけつ、めぐりつつ、
歌の彩糸《あやいと》捲《ま》きかへす
舞の花輪《はなわ》は、これやこれ
捲きてはひらく春宵の
たのしき夢の波ならし。
波の起伏身にしめて
舞へば、うたへば、暫しとて
眠りの床をのがれ来《こ》し
和魂《にぎたま》ただになごみつつ、
夢は時なき時なれば、
(ああ生《せい》ならぬ永生《えいせい》よ)
かへるを忘れ、ひたぶるに
天舞花唱《てんぶくわせう》の夢の人。
月はおぼろに、花おぼろ、
おぼろの帳《とばり》地にたれて、
いま天地の隔てさへ
ゆめの心にとけうせて、
永遠《とほ》を暫しの天の苑。

   七

月は斜《なゝ》めに、舞倦《うん》じ、
快楽《けらく》やうやう傾ぶけば、
見よや、幾群《いくむれ》、いくそ群、
みたり、五人《いつたり》、つどひつつ、
歌の音なきどよみにか
ゆられて降《ふ》れる葩《はなびら》に
みどりの髪《かみ》をほの白き
花のおぼろの流れとし、
惜しむ気《け》もなく羽衣を
土に布《し》きては、花の精《せい》、
また人の精《せい》、ともどもに
夢路《ゆめぢ》深入《ふかい》る睦語《むつがたり》。
或は熟睡《うまい》の風の児が
ふくらの頬《ほゝ》に指ついて、
驚き覚《さ》むる児が顔を
あら笑止《しやうし》や』と笑《ゑみ》つくり、
或は『柳』の精《せい》が背《せ》の
枝垂《しだり》の髪を、たわわなる
さくらの枝に結びては、
『見よこれ恋のとらはれ』と
乳房をさへて打囃《うちはや》す。
ああ幻のきよらなる
ここや、浄化《じやうげ》の愛の城。

   八

この時ひとり供奉《くぶ》の女《め》が、
匂ひなまめく円肩《まろかた》の
髪を滴《した》だるはなびらを
そと払いつつ、語るらく、
『ああこのうまし夢《ゆめ》の宴《えん》
すぎて幾夜のそのあとよ、
ゆめの心のあとは皆
あつき真夏《まなつ》の火《ほ》の室《むろ》に
やかれむのちの如何にぞ』と。
きくや、忽ち花『さくら』
肉《しゝ》ゆたかなる胸そらし、
『ああ悲しみよ、運命よ、
夢は汝等《なれら》の友《とも》ならず。
笑《ゑみ》よ、おぼろよ、愛よ、香よ、
いで今、更に一《ひと》さしを、
春の門出に、この宵の
わかれに舞ふて、うたへとよ』と、
立てば、『げにも』と、まためぐる
夢の波こそ春の音《ね》や。

   九

かくて、やうやう夜はくだち、
かへり見がちに和魂《にぎたま》の
わかれわかれて、姫神
花幔幕《はなまんまく》の玉輦《たまぐるま》
よそひ新たになりぬれば、
風の児はまづ脱《ぬ》ぎ置きし
光《つや》ある羽《はね》の衣をきて、
黄金の息を吹き出すや、
朝よぶ鐘の朗々《ろうろう》と
花のゆめをばさましつつ、
『浄化《じやうげ》の路に幸《さち》あまれ
光あまれ』と、ひとしきり
つちに淡紅《とき》なる花摺《はなず》りの
錦布《し》き祝《ほ》ぐ桜花。
東の空にほのぼのと
春の光は溢れける。

(甲辰十二月二日) 

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うばらの冠

銀燭《ぎんしよく》まばゆく、葡萄の酒は薫《くん》じ、
玉装《ぎよくそう》花袖《くわしう》の人皆酔《ゑ》にけらし。
ふけ行く夜をも忘《ぼう》じて、盃《はい》をあぐる
こやこれ歓楽つきせぬ夏の宴《うたげ》。
人皆黄金のかがやく冠《かんむり》つけて、
天下《てんが》の富《とみ》をば、華栄《はえ》をばあつめぬるに、
ああ見よ、青磁《せいじ》の花瓶《はながめ》、百合の花の
萎《しを》れて火影《ほかげ》にうつむく、何の姿。

願《ねが》ふは大臣《おとゞ》よ、野に吹く清き花は
ただ野の茨《うばら》の葉蔭に捨てて置けよ。
野生《のおひ》の裸々《らゝ》なる美《うつく》し花の矜《ほこ》り、
そは君、この夜の宴《うたげ》にあづかるべく
あまりに貧《まづ》しく、小《ちひ》さし。許せ君よ、
清きにふさふはうばらの冠《かむり》のみぞ。

(甲辰十二月十日) 

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電光

暗をつんざく雷光《いなづま》の
花よ、光よ、またたきよ、
流れて消えてあと知らず、
暗の綻《ほころ》び跡とめず。

去りしを、遠く流れしを、
束《つか》の間、──ただ瞬きの閃《ひら》めきの
はかなき影と、さなりよ、ただ『影』と
見もせば、如何に我等の此生《このせい》の
味《あぢ》さへほこる値《あたひ》さへ、
たのみ難なき約束《かねごと》の
空《あだ》なる無《む》なる夢ならし。

立てば、秋くる丘の上、
暗いくたびかつんざかれ、
また縫《ぬ》ひあはされて、電光《いなづま》の
花や、光の尾《を》は長く、
疾《と》く冷やかに、縦横《じうわう》に
西に東にきらめきぬ。

見よ、鋼色《くろがね》の空深く
光孕《はら》むか、ああ暗は
光を生《う》むか、あらずあらず。
死《し》なし、生《せい》なし、この世界、
不滅《ふめつ》ぞただに流るるよ。
ああ我が頭《かうべ》おのづと垂《た》るるかな。
かの束の間の光だに
『永遠《とは》』の鎖《くさり》よ、無限の大海《おほうみ》の
岸なき波に泳《をよ》げる『瞬時《またたき》』よ。
影の上、また夢の上に
何か建《た》つべき。来《こ》ん世の栄《はえ》と云ふ
それさへ遂にあだなるかねごとか。
ただ今我等『今』こそは、
とはの、無限の、力なる、
影にしあらぬ光と思ほへば、
散りせぬ花も、落ち行く事のなき
日も、おのづから胸ふかく
にほひ耀《かゞや》き、笑み足りて、
跡なき跡を思ふにも
随喜《ずゐき》の涙手にあまり、
足行き、眼むく所、
大いなる道はろばろと
我等の前にひらくかな。

(甲辰十二月十一日) 

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祭の夜

踊《をど》りの群《むれ》の大《おほ》なだれ、
酒に、晴着《はれぎ》に、どよめきに、
市の祭《まつり》の夜の半ば、
我は愁ひに追はれつつ、
秋の霧野《きりの》をあてもなく
袂も重くさまよひぬ。

歩みにつれて、迫りくる
霧はますます深く閉《と》ぢ、
霧をわけくる市人《いちびと》の
祭のどよみ、漸々《やうやう》に
とだえもすべう遠のきぬ。

やがて名もなき丘の上、
我はとまりぬ、墓石《はかいし》と。――
寄せては寄する霧の波、
その波の穂《ほ》と音もなく
なびく尾花《をばな》は前後《まへしりへ》、
我をめぐりぬ、城の如。

すべての声は消え去りて、
ここに大《だい》なる声充《み》てり。
すべての人はえも知らぬ
ここに立ちたれ、神と我。

我ひざまづき、声あげて
祈りぬ、『あはれ我が神よ、
爾《なんぢ》を祭《まつ》る市人《いちびと》の
舞楽《ぶがく》の庭に行きはせで、
などかは、弱きこの我を
さびしき丘に待ちはせし。
語れよ、語れ、何事も
きくべきものは我のみぞ。
我は爾《なんぢ》の僕よ、』と。
答ふる声か、犇々《ひしひし》と
(力あるかな、)深霧《ふかぎり》は
二十重《はたへ》に捲《ま》きぬ、我が胸を。

(甲辰十二月十一日) 

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暁霧

熟睡《うまい》の床をのがれ行く
夢のわかれに身も覚《さ》めて、
起きてあしたの戸に凭《よ》れば、
市の住居《すまゐ》の秋の庭
閉ぢぬる霧の犇々《ひしひし》と
迫りて、胸にい捲き寄る。

ああ清らなる夢の人、
溷《にご》る巷《ちまた》の活動《くわつどう》の
塵に立つべく、今暫し、
汝《な》が生命《せいめい》の浄《きよ》まりの
矜《ほこ》り思へと霧こそは
寄せて魂《たま》をし包むかな。

(甲辰十二月十二日) 

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落葉の煙

青桐《あをぎり》、楓《かへで》、朴《ほう》の木の
落葉《おちば》あつめて、朝の庭、
焚《た》けば、秋行くところまで、
けむり一条蕭条《いちすぢしやうでう》と
蒼《あを》小渦《ささうづ》の柱《はしら》して、
天《あめ》のもなかを指ざしぬ。

ああほほゑみの和風《やはかぜ》に
揺《ゆ》りおこされし春の日や、
またあこがれの夏の日の
日熾《ひさか》る庭に、生命の
きほひの色をもやしける
栄《さかえ》や、如何に。──消えうせぬ、
過ぎぬ、ほろびぬ、夢のあと。
今ただ冷ゆる灰《はい》のこし、
のぼる煙も、見よやがて、
地《つち》をはなれて、消えて行く。──

これよろこびのうたかたの
消ゆる嘆きか、悲しみか。
さあれど、然《さ》れど、人よ今
しばし涙を抑《をさ》へつつ、
思はずや、この一条《ひとすぢ》の
きゆる煙のあとの跡。

春ありき、また夏ありき。──
その新心地《にひごこち》、深緑《ふかみどり》、
再び、永遠《とは》にここには訪ひ来《こ》ぬや。
よし来《こ》ずもあれ。さもあらば、
この葉を萌《も》やし、光を、生命を
あたへし力《ちから》、ああ其『力』、また、
今この消ゆる煙ともろともに
消えて、ほろびて、あとなきか。
見ゆるものこそ消えもすれ、
見えざる光、いづこにか
消ゆべき、いかに隠るべき。

さらば、ただこの枯葉さへ、
薄煙《うすけむり》さへ、消えさりて、
却《かへ》りて見えぬ、大いなる
高き力ともろともに、
渾《すべ》ての絶えぬ生命の
奥の光被《くわうひ》に融《と》けて入る
不朽のいのち持たざるか。

人よ、にはかに『然《さ》なり』とは
答ふる勿れ。されどかく
思ふて、今し消えて行く
けむり見るだに、うす暗き
涙の谷《たに》に落とすべく、
われらのいのちあまりに尊ときを
値多きを感ぜずや。

(甲辰十二月十二日) 

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古瓶子

うてば坎々《かんかん》音さぶる
素焼《すやき》の、あはれ、煤《すす》びし古瓶子《ふるへいじ》、
注《つ》げや、滓《をり》まで、いざともに
冬の夜寒《よさむ》を笑はなむ。

今宵《こよひ》雪降る。世の罪の
かさむが如く、暇《ひま》なく雪は降《ふ》る。
破庵《はあん》戸もなき我なれば
妻なり、子なり、ああ汝《なんぢ》。

わらへよ、村酒一酔《そんしゆいつすゐ》は
寒さも貧《ひん》もをかさぬ我が宮ぞ。
去れ、去れ、涙、かなしみよ、
笑ふによろし古瓶子《ふるへいじ》。

世の罪つちに重《かさ》む如、
ふりぬ、つもりぬ、荒野の夜の雪。
雪は座《ざ》にまで舞《ま》ひ入りて
燭台《しよくだい》のともし尽《つ》きなんず。

酒早やなきか、それもよし、
灰となりぬる、寒炉《かんろ》の薪《まき》も、早や。
よし、よし、さらば古瓶子、
汝《なれ》を枕に世外《せぐわい》の夢を見む。

(甲辰十二月二十二日) 

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救済の綱

わづらはしき世の暗の路に、
ああ我れ、久遠《くをん》の恋もえなく、
狂ふにあまりに小さき身ゆゑ、
ただ『死』の海にか、とこしへなる
安慰よ、真珠《またま》と光らむとて、
渦巻《うづま》く黒潮《くろしほ》下《した》に見つつ、
飛《と》ばむの刹那《せつな》を、犇《ひし》と許《ばか》り、
我をば搦《から》めて巌《いは》に据《す》ゑし
ああその力《ちから》よ、信《しん》のみ手の
救済《すくひ》の綱《つな》とは、今ぞ知りぬ。

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あさがほ

ああ百年《ひやくねん》の長命《ちやうめい》も
暗の牢舎《ひとや》に何かせむ。
醒《さ》めて光明《ひかり》に生《い》くるべく、
むしろ一日《ひとひ》の栄願《はえなが》ふ。

寝《ね》がての夜のわづらひに
昏耗《ほほ》けて立てる朝の門《かど》、
(これも慈光《じくわう》のほほゑみよ、)
朝顔を見て我は泣く。

(甲辰十二月二十二日夜) 
『心の声』畢

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白鵠

愁ひある日を、うら悲し
鵠《かう》の鳴く音の堪へがたく、
水際《みぎは》の鳥屋《とや》の戸をあけて
放《はな》てば、あはれ、白妙《しろたへ》の
蓮《はす》の花船《はなぶね》行くさまや、
羽搏《はう》ち静かに、秋の香の
澄《す》みて雲なき青空を、
見よや、光のしただりと、
真白き影ぞさまよへる。

ああ地《ち》の悲歌《ひか》をいのちとは
をさなき我の夢なりし。
ひたりも深き天《あめ》の海《うみ》
一味《いちみ》のむねに放《はな》ちしを
白鵠《ひやくかう》に何うらむべき。
落とす天路《てんろ》の歌をきき、
ましろき影をあふぎては、
寧ろ自由《まゝ》なる逍遥《さまよひ》の
遮《さへぎ》りなきを羨《うらや》まむ。

(乙巳一月十八日) 

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傘のぬし

柳《やなぎ》の門《かど》にたたずめば、
胸の奥より擣《つ》くに似る
鐘がさそひし細雨《ほそあめ》に
ぬれて、淋《さび》しき秋の暮、
絹《きぬ》むらさきの深張《ふかばり》の
小傘《をがさ》を斜《はす》に、君は来ぬ。
もとより夢のさまよひの
心やさしき君なれば、
あゆみはゆるき駒下駄《こまげた》の、
その音に胸はきざまれて、
うつむきとづる眼には
仄《ほの》むらさきの靄《もや》わせぬ。

袖やふるると、をののぎの
もろ手を置ける胸の上、
言葉も落ちず、手もふれず、
歩みはゆるき駒下駄の
その音に知れば、君過ぎぬ。
ああ人もなき村路《むらみち》に
かへり見もせぬ傘《かさ》の主《ぬし》、
心いためて見送れば、
むらさきの靄やうやうに
あせて、新月《にひづき》野にいづる
空のうるみも目に添ひつ、
柳の雫《しづく》ひややかに
冷えし我が頬に落ちにける。

(乙巳一月十八日) 

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落櫛

磯回《いそは》の夕《ゆふ》のさまよひに
砂に落ちたる牡蠣《かき》の殻《から》
拾《ひろ》うて聞けば、紅《くれなゐ》の
帆かけていにし曽保船《そぼふね》の
ふるき便《たより》もこもるとふ
青潮《あをうみ》遠きみむなみの
海の鳴る音もひびくとか。
古城《ふるき》の庭に松笠《まつかさ》の
土をはらふて耳にせば、
もも年《とせ》過ぎしその昔《かみ》の
朱《あけ》の欄《おぼしま》めくらせる
殿の夜深き御簾《みす》の中、
千鳥《ちどり》縫《ぬ》ひたる匂ひ衣《ぎぬ》
行燈《あんどう》の灯《ひ》にうちかけて、
胸の秘恋《ひめごひ》泣く姫が
七尺《しちしやく》落つる秋髪《あきがみ》の
慄《ふる》ひを吹きし松の風
かすけき声にわたるとか。
ああさは君が玉の胸、
青潮《あをじほ》遠き南《みむなみ》の
海にもあらず、ももとせの
古き夢にもあらなくに、
などかは、高き彼岸《かのきし》の
うかがひ難き園の如、
消息《せうそこ》もなきふた年《とせ》を
靄のかなたに秘めたるや。
君夕毎にさまよへる
ここの桜の下蔭に、
今宵おぼろ夜十六夜《いざよひ》の
月にひかれて来て見れば、
なよびやかなる弱肩《よわがた》に
こぼれて匂ひ添へにけむ
落葩《おちはなびら》よ、地に布《し》きて、
夢の如くもほの白き
中にかがやく波の形《かた》、──
黄金の蒔絵《まきゑ》あざやかに
ああこれ君が落櫛《おちぐし》よ。
わななきごころ目を瞑《と》ぢて、
ひろうて耳にあてぬれど、
君が海なる花潮《はなじほ》の
響きもきかず、黒髪の
見せぬゆらぎに秘め玉ふ
み心さへもえも知れね。
まどひて胸にかき抱き
泣けば、百《もゝ》の歯《は》皆生《い》きて、
何をうらみの蛇《くちはな》や、
ああふたとせのわびしらに
なさけの火盞《ほざら》もえもえて
痩《や》せにし胸を捲《ま》きしむる、

(乙巳二月十八日夜) 

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森の葉を蒸《む》す夏照《なつで》りの
かがやく路のさまよひや、
つかれて入りし楡《にれ》の木の
下蔭に、ああ瑞々《みづみづ》し、
百葉《もゝは》を青《あを》の御統《みすまる》と
垂《た》れて、浮けたる夢の波、
真清水透《とほ》る小泉よ。
いのちの水の一掬《ひとむすび》、
いざやと下《お》りて、深山《ふかやま》の
小【じか】*1《をじか》の如く、勇みつつ、
もろ手をのべてうかがへば、
しら藻《も》は髪にかざさねど
水神《みづち》か、いかに、笑《ゑま》はしの
ゆたにたゆたにものの影、
紫《むらさき》三稜草《みくり》花《はな》ちさき
水面《みのも》に匂ふ若眉《わかまゆ》や、
玉頬《たまほ》や、瑠璃《るり》のまなざしや。
ああ一雫《ひとしづく》掬《すく》はねど、
口《くち》は無花果《いちじく》香もあまき
露にうるほひ、涼しさは
胸の奥まで吹きみちぬ。
夢と思ふに、夢ならぬ
と云ふ音におどろきて
眼《まなこ》あぐれば、夢か、また、
木《こ》の間《は》まぼろし鮮《あざ》やかに
垂葉《たりは》わけつつ駈《か》けて行く。──
さは黒髪のさゆらぎに
小肩《をがた》なよびの小女子《をとめご》よ。──
ああ常夏《とこなつ》のまぼろしよ、
など足早《あしばや》に過ぎ玉ふ。
ねがふは君よ、夢の森
にほふ緑の涼影《すゞかげ》に
暫しの安寝《やすい》守らせて、
(しばしか、夢の永劫《えいごふ》よ。)
われ夢守《ゆめもり》とゆるせかし。
目さめて仄《ほの》に笑《ゑ》ます時、
もろ手は玉の【ゆする】*2坏《ゆするつき》、
この真清水を御【ゆする】*3水《みゆする》に
手《て》づから君にまゐらせむ。
ああをとめごよ、幻よ、
はららの袖や愛の旗、
などさは疾《はや》き足《あし》どりに、
天《あめ》の鳥船《とぶね》のかくろひに、
緑《みどり》の中に消えたまふ。

(乙巳二月十九日夜) 

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*1:「けものへん」に「章」

*2:「さんずい」に「甘」

*3:「さんずい」に「甘」

青鷺

隠沼《こもりぬま》添《ぞ》ひの丘《をか》の麓《を》、
漆《うるし》の木立《こだち》時雨《しぐ》れて
秋の行方《ゆくへ》をささ
たづねて過《す》ぎし跡や、
青鷦色《やまばといろ》の霜《しも》ばみ、
斑《まだら》らの濡葉《ぬれば》仄《ほの》に
ゆうべの日射《ひざし》燃《も》えぬ。

野こえて彼方《かなた》、杉原《すぎはら》、
わづかに見ゆる御寺《みてら》の
白鳩《しらはと》とべる屋根《やね》や、
さびしき西の明《あか》るみ、
誰《た》が妻《つま》死ねる夕ぞ、
鐃【ばち】*1《ねうばち》遠く鳴りて、
涙《なんだ》も落つるしじまり。

ゐ凭《よ》れば、漆若樹《うるしわかぎ》の
黄朽葉《きくちば》はらら、胸に
拱《こま》ぬぐ腕《うで》をすべりぬ。
ふと見るけはひ、こは何、──
隠沼《こもりぬ》碧《あを》の水嵩《みかさ》の
蘆《あし》の葉ひたすほとりに
青鷺《あをさぎ》下《お》りぬ、静かや。

立つ身あやしと凝視《まも》るか、
注《そゝ》ぐよ、我に小瞳《こひとみ》。──
あな有難《ありがた》の姿と
をろがみ心《ごゝろ》、我今《われいま》
鳥《とり》の目底《めぞこ》に迫《せま》るや、
尾被《をかつぎ》ききと啼《な》きて
漆の木立夕つけぬ。

(乙巳二月二十日) 

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*1:「かねへん」に「友」

小田屋守

身は鄙《ひな》さびの小田屋守《をだやもり》、
苜蓿《まごやし》白き花床《はなどこ》の
日照《ひで》りの小畔《をぐろ》、まろび寝て、
足《た》るべらなりし田子《たご》なれば、
君を恋ふとはえも云へね、
水無月《みなづき》蛍とび乱れ、
暖《ぬる》き風吹く宵《よひ》の間を、
ひるがほ草《さう》の蔓《つる》ながき
小田《をだ》の小径《こみち》を匂はせし
都ぶりなるおん袖に
ゆきずり心《こゝろ》蕩《とろ》かせし
その移り香の胸に泌《し》み、
心の栖家《すみか》君にとて
なさけの小窓《をまど》ひきしより、
ああ吹く笛のみだれ音《ね》や、
みだりごころは、青波の
稲田《いなだ》の畔《あぜ》の堰《せ》きかねて
夏照《なつで》り走るぬるみ水、
世に許《ゆ》りがたき貴人《あでびと》の
御姫《みこ》なる君を追ひぞする。
今は四方田《よもだ》の稲たわわ、
琥珀《こはく》の玉をむすべるに、
ひめてはなたぬ我が思ひ、
ただわびしらの思寝《おもひね》の
涙とこそはむすぼふれ、
ああ玉苑《ぎよくえん》のふかみ草
大き葩《はなびら》啄《つ》まむとて
追ひやらはれし野の鳥の
つたなき身様《みざま》まねけるや。
こよひ刈穂《かりほ》の庵《いほ》の戸に
八束穂《やつかほ》守る身を忘れ、
小田刈月《をだがりづき》の亥中月《ゐなかづき》、
君知りしより百夜《もゝよ》ぞと
さまよひ来ぬるみ舘《やかた》の
木槿《もくげ》花咲く垣《かき》のもと、
灯《ほ》かげ明《あか》るき高窓《たかまど》に
君が弾《ひ》くなる想夫憐《さうふれん》。
ああ鄙《ひな》さびの小田屋守《をだやもり》、
笛なげすてて、花つみて、
花をば千々《ちゝ》にさきすてて、
溝《みぞ》こえ、厚《あつ》き垣《かき》をこえ、
君が庭には忍び入る。

(乙巳二月二十日) 

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凌霄花

鐘楼《しゆろう》の柱《はしら》まき上《あ》げて
あまれる蔓《つる》の幻と
流れて石の階《きざはし》の
苔《こけ》に垂れたる夏の花、
凌霄花《のうぜんかづら》かがやかや。
花を被《かづ》きて物思《ものも》へば、
現《うつゝ》ならなく夢ならぬ
ただ影深《かげぶか》の花の路、
君ほほゑめば靄かほり
我もの云へば蕾《つぼみ》咲く
歩み音なき遠つ世の
苑生《そのふ》の中の逍遥《さまよひ》の
眩《まば》ゆきいのち近づくよ。
身は村寺《むらでら》の鐘楼守《しゆろうもり》、──
君逝《ゆ》きしより世を忘れ、
孤児《みなしご》なれば事もなく
御僧《みさう》に願ひゆるされて、
語《ご》もなき三とせ夢心地、
君が墓《はか》あるこの寺に、
時告《つ》げ、法《のり》の声をつげ、
君に胸なる笑《ゑ》みつげて、
わかきいのちに鐘を撞《つ》く。──
君逝《い》にたりと知るのみに、
かんばせよりも美くしき
み霊《たま》の我にやどれりと
人は知らねば、身を呼びて
うつけ心《ごゝろ》の唖《おふし》とぞ
あざける事よ可笑《おか》しけれ。
あやめ鳥《どり》鳴く夏の昼《ひる》
御寺《みてら》まゐりの徒歩《かち》の路、
ひと日み供《とも》に許《ゆる》されて、
この石階《きざはし》の休《やす》らひや、
凌霄花《のうぜんかづら》花《はな》二つ
摘《つ》みて、一つはわが襟《えり》に、
一つは君がみつむりの
かざしに添へてほほゑませ、
み姉《あね》と呼ぶを許《ゆ》りにける
その日、十六かたくなの
わが胸涵《ひた》す匂ひ潮、
おほ葩《はなびら》の、名は知らね、
映《は》ゆき花船うかべしか。
さればこの花、この鐘楼《しゆろう》、
我が魂《たましひ》の城と見て、
夏ひねもすの花まもり、
君が遺品《かたみ》の、香はのこる
上《かみ》つ代《よ》ぶりの小忌衣《をみごろも》、──
昔好《むかしごの》みの君なれば
甞《かつ》ては御簾《みす》のかげ近き
衣桁《いかう》にかけて、空薫《そらだき》の
風流《ふりう》もありし香のあとや、──
草摺《あをぐさずり》の白絹《しらぎぬ》に
袖にかけたる紅《あけ》の紐《ひも》、
年の経《へ》ぬれば裾《すそ》きれて
鶉衣《うづらごろも》となりにたれ、
君が遺品《かたみ》と思ほえば
猶わが身には玉袍《ぎよくほう》と、
男姿《をとこすがた》にうち襲《かさ》ね、
人の云ふ語《ご》は知らねども、
胸なる君と語らふに、
のうぜんかづら夏の花
かがやかなるを、薫《くん》ずるを、
かの世この世の浮橋《うきはし》の
『影なる園』の玉《たま》の文字《もじ》。
花を被《かづ》きて、石に寝て、
君が身めぐる照る玉の
眩《まば》ゆきいのち招《まね》ぎつつ、
ああ招ぎつつ、迎《むか》へつつ、
夕つけくれば、朝くれば、
ほほゑみて撞《つ》く巨鐘《おほがね》の
高き叫びよ、調和《とゝのひ》よ、──
その声すでに君や我
ふたりの魂《たま》の船のせて
天《あめ》の門《かど》にし入りぬれば、
人の云ふなる放心者《うつけもの》、
身は村寺の鐘楼守《しゆろうもり》、
君に捧《さゝ》げし吾生命《わぎのち》の
この喜悦《よろこび》を人は知らずも。

(乙巳二月二十日夜) 

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草苺

青草《あをぐさ》かほる丘《をか》の下《もと》、
小唄《こうた》ながらに君過《す》ぐる。
夏の日ざかり、野良《のら》がよひ、
駒《こま》の背《せ》にして君過ぐる。
君くると見てかくれける
丘の草間《くさま》の夏苺《なついちご》、
日照《ひで》りに蒸《む》れて、青牀《あをどこ》や、
草いきれする下かげに、
天《あめ》の日うけて情《なさけ》ばみ
色ばみ燃えし紅《あけ》の珠《たま》、──
鶉《うづら》の床の丘の辺に
もとより鄙《ひな》の草なれど、
ああ胸の火よ、紅《あけ》の珠《たま》、──
とどろぎ心《ごゝろ》ひざまづき、
手触《てふ》れて見れば、うま汁《しる》に
あへなく指《ゆび》の染《そ》みぬるよ。
素足草刈《すあしくさか》る身は十五、
夏草しげる中なれば、
心《むね》の苺《いちご》はかくれたれ、
くろ髪捲ける藍染《あゐぞめ》の
白木綿《しらゆふ》君に見えざるや。
過ぎし祭《まつり》りの春の夜、
おぼろ夜深み、酒《さか》ほぎの
庭に、手とられ、袖とられ、
君に撰《ゑ》られて、はづかしの
唄《うた》に盃《さかづき》さされける
ああその夜より、姿よき、
駒《こま》もち、田もち、家もちの
君が名になど頬《ほ》の熱《ほて》る。
今君行くよ、丘の下、──
かがやく路を、若駒《わかごま》の
白毛《あしげ》ゆたかの乗様《のりざま》や、──
声し立てねば、えも向《む》かで
小唄《こうた》ながらに君行くよ。
ああ草蔭《くさかげ》の夏苺《なついちご》、
天《あめ》の日うけて情ばみ
色ばみ燃えて、日もすがら
くちびる甘《あま》き幸《さち》まてど、
醜草《しこくさ》なれば、君が園
枝《えだ》瑞々《みづみづ》し林檎《りんごう》の
櫑子《らいし》に盛《も》られ、手にとられ、
君がみ唇《くち》に吸《す》はるべき
木《こ》の実《み》の幸《さち》をうらみかねつも。

(乙巳二月廿一日) 

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めしひの少女

『日は照るや。』声は青空《あをぞら》
白鶴《しらつる》の遠きかが啼き、──
ひむがしの海をのぞめる
高殿《たかどの》の玉の階《きざはし》
白石《しらいし》の柱に凭《よ》りて、
かく問《と》ひぬ、盲目《めしひ》の少女《をとめ》。
答《こた》ふらく、白銀《しろがね》づくり
うつくしき兜《かぶと》をぬぎて
ひざまづく若《わか》き武夫《もののふ》、
『さなり。日は今浪はなれ、
あざやかの光の蜒《うね》り、
丘を越《こ》え、夏の野をこえ、
今君よ、君が恁《よ》ります
白石《しらいし》の円《まろ》き柱の
上半《うへなか》ば、なびくみ髪《ぐし》の
あたりまで黄金《こがね》に照りぬ。
やがて、その玉のみ面《おも》に
かゞやきの夏のくちづけ、
又やがて、薔薇《ばら》の苑生《そのふ》の
石彫《いしぼり》の姿に似たる
み腰《こし》にか、い照り絡《から》みて、
あまりぬる黄金の波は
我が面《おも》に名残《なごり》を寄せむ。』
手をあげて、めしひの少女、
円柱《まろばしら》と撫《さす》りつつ、
さて云ひぬ、『げに、あたたかや。』
また云ひぬ、『海に帆《ほ》ありや。
大空《おほそら》に雲の浮ぶや。』
武夫《もののふ》はと立ちあがり、
答ふらく、力《ちから》ある声、
『ああさなり。海に帆の影、──
いづれそも、遠く隔《へだ》てて、
君と我がなからひの如、
相思ふとつくに人《びと》の
文使《ふみづかひ》乗《の》する船なれ、
紅《くれなゐ》の帆をばあげたり。──
大空《おほぞら》に雲はうかばず、
今日《けふ》もまた、熱《あつ》き一日《いちにち》。──
君とこそ薔薇《ばら》の下蔭《したかげ》
いと甘き風に酔《ゑ》ふべき
天地《あめつち》の幸福者《さいはひもの》の
我にかも厚《あつ》き恵《めぐ》みや、
大日影《おほひかげ》かくも照るらし。』
少女《をとめ》云ふ、『ああさはあれど、
君はただ身ゆるこそ見め。
この胸の燃ゆる日輪《にちりん》、
いのちをも焼《や》きほろぼすと
ひた燃えに燃ゆる日輪、
み眼《め》あれば、見ゆるを見れば、
えこそ見め、この日輪《にちりん》を。』
武夫《もののふ》はいらへもせずに、
寄り添ひて強《つよ》き呟《つぶ》やき、
『君もまた、えこそ見め、我が
双眸《さうぼう》の中にかくるる
たましひの、君にと燃ゆる
みち足《た》らふ日のかがやきを。』
かく云ひて、少女を抱き、
たましひをそのたましひに、
唇《くちびる》をその唇《くちびる》に、
(生死《いきしに》のこの酔心地《ゑひごゝち》)
もえもゆる恋の口吻《くちづけ》。──
口吻《くちづけ》ぞ、ああげに二人《ふたり》、
この地《つち》に恋するものの、
胸ふかき見えぬ日輪《にちりん》
相見ては、心休むる
唯一《たゞいち》の瞳《ひとみ》なりけれ。──
日はすでに高《たか》にのぼりて、
かき抱く二人、かゞやく
白銀《しろがね》の兜《かぶと》、はたまた、
白石《しらいし》の円《まろ》き柱や、
また、白き玉の階《きざはし》、
おほまかに、なべての上に
黄金なす光さし添へ、
高殿《たかどの》も恋の高殿《たかどの》、
天地《あめつち》も恋の天地《あめつち》、
勝《か》ちほこる胸の歓喜《くわんき》は
光なす凱歌《かちどき》なれば、
丘をこえ、青野をこえて、
ひむがしの海の上まで
まろらかに溢《あふ》れわたりぬ。

(乙巳三月十八日) 

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来し方よ破歌車《やれうたぐるま》
綱《つな》かけて、息《いき》もたづたづ、
過ぎにしか、こごしき坂を
あたらしきいのちの花の
大苑の春を見むとて。

((この集のをはりに)) 

  あこがれ 畢

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少年にして早う名を成すは禍なりと云へど、しら髮かきたれて身はさらぼひながら、あるかとも問はれざる生きがひなさにくらぶれば、猶、人と生れて有らまほしくはえばえしきわざなりかし。それも今様のはやりをたちが好む、ただかりそめの名聞ならば爪弾《ツマハジ》きしつべけれ、香木のふた葉にこもるかをりおさへあへずおのづから世にちりぼひて、人の捧ぐる誉れを何かは辞むべき。石川啄木は年頃わが詩社にありて、高村砕雨・平野万里など云ふ人達と共に、いといと殊に年わかなる詩人なり。しかもこれらわかきどちの作を読めば、新たに詩壇の風調を建つるいきざし火の如く、おほかたの年たけし人々が一生にもえなさぬわざを、早う各々身ひとつには為遂《シト》げむとすなる。あはれさきには藤村・泣菫・有明の君達あり今はたこれらのうらわかき人達を加へぬ。われら如何ばかりの宿善ある身ぞ、かゝる文芸復興の盛期に生れ遭ひて、あまた斯やうにめづらかなる才人のありさまをも観るものか。こたび書肆のあるじなにがし、啄木に乞ひて、その処女作『あこがれ』一集を上板せむとす。啄木、その事の今の売名の徒と誤り見られむことを恐れて、われに議りぬ。われ云ふ、毀誉《きよ》の外に立ちてわが信ずる所にひたゆくは、古の詩人の志にあらずや。あながちに当世の人のためにのみ詩を作らざるは、またわが詩社のおきてにあらずや。みずから省みて疚しからずば、もとより詩集を出すは詩人の事業なり、何のためらふ所ぞと。啄木わがこの云を聴き、ほほゑみて草本一捲を懐より取うでぬ。こは啄木が十八の秋より二十《ハタチ》の今の春かけて作れるもの凡そ七十余篇、あなめざまし、あななつかし、あなうるはし、人見て驚かぬかは。

  巳の暮春

与謝野鉄幹 

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傍点は太字で示した。
ルビは《》で示した。
対応できない字については、【】で示した。
旧字体新字体に直した。
親本:「石川啄木全集」筑摩書房(昭和54年)
初出:「あこがれ」小山田書房(明治38年)