2005-08-02から1日間の記事一覧

夕暮

一つの窓は鎧戸で閉されたまま久しく落日の的になつてゐた。 秋は少しづつ樹々を振つた、漸《やうや》く垣間《かいま》見られる庭の一隅《いちぐう》の椅子によつて、老人がさきほどから冷たい牛乳のコップを手にしてゐた。 父親らしい人である。 よく肖《に…

吾が家

その年の夏、私は庭に居て、よく蜩《ひぐらし》を聞いた。 母の不在が、家のうちに、おそくまで燈《ひ》をともさなかつた。 庭にしつらへた食卓で。 父が生涯の若い頃を息子に語り聞かせるのもこの時刻であつた。 父のなかに私がゐる。 やうやく、私のなかに…

睡眠

睡入《ねい》つてしまつた、静かな午後をあとに残して。 娯《たの》しみは果敢《はか》ない…… それで私は余程寝むつたのであらうか。 (苔蒸しては、時をうたない庭の時計) 醒めて――私の眸《ひとみ》は、ほど近い空に、やや遠い想ひのする星を見出した。 そ…

私弁

春は木陰のみ多い道をたどつて。花ひとつかざす心は喪《うしな》はれた。 私の歩調《あしどり》は何処から、私の口笛は何処へ。 春鳥が私に告げる。 「この美しい、いとなみ、樹々のヘヤネツトのもとで、君もおのづからなる歌をうたひ給へ」と。 託すべく 歌…

家鴨と少年

短いズボンを穿いた少年が池畔にたつて家鴨《あひる》を呼んでゐる。家鴨はこない、だが待つてゐるのは少年だけではない。池畔に影をおとした洋館のテラスで、姉らしい娘が読書をしてゐる。それが逆さまに映つてゐる。だが、出てきさうにはない。さう、昨日…

生涯の歌

海べりの街の朝まだきを、鴉の群は遠くよびかはしながら通りすぎる。 (啄《ついば》むだ果実を空にかへせ。) その空の鉛の朝雲りに鴉は呼びかはし、 答を得てはとび去る。 人は、すでに床《とこ》の中に目覚めてゐて、それをきいてゐたであらうか。 また、…

仕事

さかしらな耳を喪つてから、潮騒は私に聞えなくなつた。 みどり濃い海の表面《おもて》の時間が、やがて瞳に映らなくなつた。 或る日 窓のカーテンをおろして、粗笨《そほん》な鉛筆で、私は一枚の海を描《か》いた。 目次に戻る

姉の庭

朝あけ、 外国婦人と共に、姉の棺に花を撒いた。 夏咲く花のくさぐさ。 そのうちには、庭の桔梗《ききやう》を交へて。 目次に戻る

肱ををついて

書物は、この上に文字がなければ、私は一ひら毎《ごと》に木《こ》の葉にもたとへようものを。 図書館の窓によつて、街燈《がいとう》に灯が這入る。 いち早く私の心に沁み入るもの。 旗をかかげた公園の入口では。園丁《ゑんてい》がくぐりのかんぬきをかけ…

愛する神の歌

父が洋杖《ステツキ》をついて、私はその側に立ち、新らしく出来上つた姉の墓を眺めてゐた、 噴水塔の裏の木梢《こずゑ》で、春蝉がないてゐる。 若くて身歿《みまか》つた人の墓石は美しく磨かれてゐる。 ああ、嘗つて、誰が考へただろう。この知らない土地…

海岸線

海辺に、私の知らない姉弟が双手《もろて》に砂や小石を一杯つかんで立つてゐた。年頃も丁度貴女《あなた》たちのやうな。 夕焼空。浜は美しい祝祭のやうに、それは明日新婦になる貴女への心やりか。 それならば、私もこの祝祭にあづからう、帆によせて、海…

手紙

仏蘭西島《イル・ド・フランス》の娘ヴイルジニイが恋人の家族に書きおくる手紙のなかでは、その楽しい部分は最後にまで残しておいたと。 私はその頃、姉の愛のみを信じた、橙色《だいだいいろ》の燈《ひ》の下で書く週末の手紙のなかでは、その楽しいこと、…

就寝時

寝《やす》む前に、姉は私に二本の蝋燭をあてがつた。 私の剪《き》る書物は、どの頁《ページ》をひらいても優雅な街の挿画《さしゑ》があり、夕暮の街はおびただしい燈火《あかり》がともり、馬車が走つてゐた。 馬車の軋《きし》る音と、ひろがつた黄昏が…

海の想い

伊太利《イタリー》の帽子を振つて、 ああ。いくそたび、私は海を見ることか、 あの明るい不眠の夜《よ》、鳩は飛びたつた。その暁《あか》ときの羽音をすら残さないで、それから―― 私の、いたつきの日の旅程、はたと行きつまれば、もう潮騒の音がちかい。 …

若年

石像の下で、 私はもう男の児の遊戯《あそび》を忘れてゐた。 蒼くばかり涯《はて》しない空をあふいでは、垂髪《たれがみ》と文字のない語らひを、家庭の外の話をした、石像の冷たい眸《ひとみ》、異教の不安な視力のなかではそれだけ身を近づけて。 (時は…

屋上庭園

私の心をそそるものは音楽ではなかつた。 晴れた日の屋上で、私は友を待つた。五分《ごぶ》ばかり咲いた桜。この屋上にいみじくも植ゑられた人口の花の下では夕暮れが早い。 私はひとひらの整つた花瓣《かべん》を掌《てのひら》の上にし、また裏返してみた…

吹奏楽

公園の近所に住んで、私は土曜日毎に音楽堂を訪れた。 一人の紅顔《こうがん》の楽手《がくしゅ》が空にむけて、ひたむきにラッパを吹きならしてゐた。 不思議に礼節に富む楽の音。 私は落葉を踏み、それは、まさに秋の画廊であつたが、帰るさ、一人の子守の…

星へ

私の歌はふとするものはすべて歌ひ尽されてしまつた。 誰れか知らない少年達の口で、夜へ、そして、最愛のものへ。 夜空の星は、一つびとつ消えていつた。 恐らく、私は一人残された少年であらう。 目次に戻る

石像の歌

山の湖畔で

秋の、悲運の傷あとに、 小鳥は口嘴《くちばし》を洗つてゐた、おのが身の口嘴《くちばし》を 湖《うみ》――、あの豊かな空想の器《うつは》 この水に、空想ならぬ何事を映《うつ》してゐたのだらう。 目次に戻る

戸隠

山の上では―― 雪のあとの空の、寒い紅は、いつでも散りうせなかつた。 蕎麦粉を運び、人を乗せて、麓の原の蕭々《せうせう》をたどるバスの窓に、いつでも消え去らなかつた哀しみが、 今、やうやく、黄昏のあいさつの、 「おつかれ、おつかれ」を繰り返して…

善光寺平

うららかに、美しき衣《きぬ》きせて、 背の子と、ともどもに、 うつつなく見入る春の雲。 目次に戻る

林檎園

紅玉の実結ぶこの樹々は 雪空のもと、幾月をすごすならむ そを思ひて、山を下りき そを想ひて、頬を燃やしぬ。 目次に戻る

長野

日にいくそたび吾《あ》は鐘の音を聞きしならむ。 秋寂びて空わたるは、未だ見ぬ大寺の鐘か。 此処に来て、老いの人達憂ひはなしと語れど 若き身は、旅に疲れて、いよよ濃き今生の思ひぞ。 西東《にしひがし》 吾《あ》は知らず、町なかに居て日暮は来たりぬ…

往生寺

柿の木に、月は登りぬ。 憂ひもよし、娘の夜読《やどく》。 夜半《よは》の秋 孤《ひとり》に居《い》にしあれば 衣衣《きぬぎぬ》に、電燈《ともしび》もうつらむ。 目次に戻る

千曲川

その橋は、まこと、ながかりきと、 旅終りては、人にて告げむ、 雨ながら我が見しものは、 戸倉の燈《ひ》か、上山田《かみやまだ》の温泉《いでゆ》か、 若き日よ、橋を渡りて、 千曲川、汝《な》が水は冷たからむと、 忘れるべきは、すべて忘れはてにき。 …

北信濃の歌

秋のころ、室生犀星先生に頂いた句ひとつ 夢によせて しなの路に面《おも》ふせてゐる夜さむかな 目次に戻る

春の噴煙――佐久の平で

噴煙《けむり》は ひと日傾いてゐた、平の空に、伝説《いひつたへ》のやうに、片方へ 片方へと。 村の僮《こども》は眺めてゐた。 春の林の彼方に見える火山《やま》。 山裾では、一面につつじが咲いた、やがて散つてゐた、誰がふんで行つた迹《あと》だらう…

秋の歌

私は憶《おぼ》えてゐる、 尾花《おばな》を手にさげた婦人が、まるで肖像《せきぞう》のやうに立つてゐた家の入口を、あるひは、午後を。 (病身で、いくたりかの子供もあつて、眸《ひとみ》には何も映つてゐない) 私は憶えてゐる。 釘づけにされた、あの…

高原

屋根瓦や、窓がらす、 また、逝《ゆ》いた桔梗《ききやう》の花に、 秋風が来て。もう、たわいもない。 造られた、虚なる日と日は、 あえかなるままに、移り行き、 澄みわたる 空のひとところは。 血に紅く悔恨が染めてゐる。 目次に戻る