詩のpickup(好きな詩)

立原道造さんの詩の中から、好きな詩を10詩選びました。

  • 詩集「萱草に寄す」から
    • 夏花の歌
      (それはあの日の夏のこと! いつの日にか もう返らない夢のひととき)
    • 夏の弔ひ
      (逝いた私の時たちが 私の心を金にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと)
    • のちのおもひに
      (夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に)
    • わかれる昼に
      (ゆさぶれ 青い梢を もぎとれ 青い木の実を)
  • 詩集「暁と夕の歌」から
    • 溢れひたす闇に
      (美しいものになら ほほゑむがよい 涙よ いつまでも かはかずにあれ)
  • 詩集「優しき歌」から
    • さびしき野辺
      (いま だれかが 私に 花の名を ささやいて行つた)
    • 夢見たものは…
      (夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛)
  • その他
    • 天の誘ひ
      (死んだ人なんかゐないんだ。 どこかへ行けば、きつといいことはある。)
    • ひとり林に……
      (山のみねの いただきの ぎざぎざの上)
    • ひとり林に……
      (だれも 見てゐないのに 咲いてゐる 花と花 だれも きいてゐないのに 啼いてゐる 鳥と鳥)



夏花の歌



その一

空と牧場のあひだから ひとつの雲が湧きおこり
小川の水面に かげをおとす
水の底には ひとつの魚が
身をくねらせて 日に光る

それはあの日の夏のこと!
いつの日にか もう返らない夢のひととき
黙つた僕らは 足に藻草をからませて
ふたつの影を ずるさうにながれにまかせて揺らせてゐた

……小川の水のせせらぎは
けふもあの日とかはらずに
風にさやさや ささやいてゐる

あの日のをとめのほほゑみは
なぜだか 僕は知らないけれど
しかし かたくつめたく 横顔ばかり

その二

あの日たち 羊飼ひと娘のやうに
たのしくばつかり過ぎつつあつた
何のかはつた出来事もなしに
何のあたらしい悔ゐもなしに

あの日たち とけない謎のやうな
ほほゑみが かはらぬ愛を誓つてゐた
薊の花やゆふすげにいりまじり
稚い いい夢がゐた――いつのことか!

どうぞ もう一度 帰つておくれ
青い雲のながれてゐた日
あの昼の星のちらついてゐた日……

あの日たち あの日たち 帰つておくれ
僕は 大きくなつた 溢れるまでに
僕は かなしみ顫へてゐる

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夏の弔ひ



逝《ゆ》いた私の時たちが
私の心を金《きん》にした 傷つかぬやう傷は早く愎るやうにと
昨日と明日との間には
ふかい紺青《こんじょう》の溝がひかれて過ぎてゐる

投げて捨てたのは
涙のしみの目立つ小さい紙のきれはしだつた
泡立つ白い波のなかに 或る夕べ
何もがすべて消えてしまつた! 筋書きどほりに

それから 私は旅人になり いくつも過ぎた
月の光にてらされた岬々の村々を
暑い 涸いた野を

おぼえてゐたら! 私はもう一度かへりたい
どこか? あの場所へ(あの記憶がある
私が待ち それを しづかに諦めた――)

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のちのおもひに



夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへつた午さがりの林道を

うららかに青い空には陽がてり 火山は眠つてゐた
――そして私は
見て來たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……

夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまつたときには

夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

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わかれる昼に



ゆさぶれ 青い梢を
もぎとれ 青い木の実を
ひとよ 昼はとほく澄みわたるので
私のかへつて行く故里が どこかにとほくあるやうだ

何もみな うつとりと今は親切にしてくれる
追憶よりも淡く すこしもちがはない静かさで
単調な 浮雲と風のもつれあひも
きのふの私のうたつてゐたままに

弱い心を 投げあげろ
噛みすてた青くさい核《たね》を放るやうに
ゆさぶれ ゆさぶれ

ひとよ
いろいろなものがやさしく見いるので
唇を噛んで 私は憤ることが出来ないやうだ

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溢れひたす闇に



美しいものになら ほほゑむがよい
涙よ いつまでも かはかずにあれ
陽は 大きな景色のあちらに沈みゆき
あのものがなしい 月が燃え立つた

つめたい!光にかがやかされて
さまよひ歩くかよわい生き者たちよ
己は どこに住むのだらう――答へておくれ
夜に それとも昼に またうすらあかりに?

己は 甞《かつ》てだれであつたのだらう?
(誰でもなく 誰でもいい 誰か――)
己は 恋する人の影を失つたきりだ

ふみくだかれてもあれ 己のやさしかつた望み
己はただ眠るであらう 眠りのなかに
遺された一つの憧憬《どうけい》に溶けいるために

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さびしき野辺



いま だれかが 私に
花の名を ささやいて行つた
私の耳に 風が それを告げた
追憶の日のやうに

いま だれかが しづかに
身をおこす 私のそばに
もつれ飛ぶ ちひさい蝶らに
手をさしのべるやうに

ああ しかし と
なぜ私は いふのだろう
そのひとは だれでもいい と

いま だれかが とほく
私の名を 呼んでゐる……ああ しかし
私は答へない おまへ だれでもないひとに

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夢見たものは



夢見たものは ひとつの幸福
ねがつたものは ひとつの愛
山なみのあちらにも しづかな村がある
明るい日曜日の 青い空がある

日傘をさした 田舎の娘らが
着かざつて 唄をうたつてゐる
大きなまるい輪をかいて
田舎の娘らが 踊りををどつてゐる

告げて うたつてゐるのは
青い翼の一羽の 小鳥
低い枝で うたつてゐる

夢見たものは ひとつの愛
ねがつたものは ひとつの幸福
それらはすべてここに ある と

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天の誘ひ



 死んだ人なんかゐないんだ。
 どこかへ行けば、きつといいことはある。

 夏になつたら、それは花が咲いたらといふことだ、高原を林深く行かう。もう母もなく、おまへもなく。つつじや石榴の花びらを踏んで。ちようどついこの間、落葉を踏んだやうにして。
 林の奥には、そこで世界がなくなるところがあるものだ。そこまで歩かう。それは麓《ふもと》をめぐつて山をこえた向うかも知れない。誰にも見えない。
 僕はいろいろな笑い声や泣き声をもう一度思い出すだらう。それからほんとうに叱られたことのなかつたことを。僕はそのあと大きなまちがひをするだろう。今までのまちがひがそのためにすつかり消える。

 人は誰でもがいつもよい大人になるとは限らないのだ。美しかつたすべてを花びらに埋めつくして、霧に溶けて。

 さようなら。

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ひとり林に……



山のみねの いただきの ぎざぎざの上
あるのは 青く淡い色 あれは空
空のかげに かがやく日 空のおくに
ながれる雲……私はおもふ 空のあちこちを

夏の日に咲いてゐた 百合の花も ゆふすげも
薊(あざみ)の花も かたい雪の底に かくれてゐる
みどりの草も いまはなく 梢の影が
葵色の こまかい線を 編んでゐる

ふと過ぎる……あれは頬白 あれは鶸(ひは)!
透いた林のあちらには 山のみねのぎざぎざが
ながめてゐる 私を 私たちを 村を――

すべてに 休みがある ふかい息をつきながら
耳からとほく 風と風とが ささやきかはしてゐる
――ああ この真白い野に 蝶を飛ばせよ!……

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ひとり林に……



だれも 見てゐないのに
咲いてゐる 花と花
だれも きいてゐないのに
啼いてゐる 鳥と鳥

通りおくれた雲が 梢の
空たかく ながされて行く
青い青いあそこには 風が
さやさや すぎるのだらう

草の葉には 草の葉のかげ
うごかないそれの ふかみには
てんたうむしが ねむつてゐる

うたふやうな沈黙《しじま》に ひたり
私の胸は 溢れる泉! かたく
脈打つひびきが時を すすめる

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