感想

  • 実は私は旧狭山市民である。秩父へは、西武新宿線を所沢まで乗り、西武池袋線に乗り換えて西武秩父までは1時間半といった所だ。秩父事件といった名称は、狭山市駅前でそのような文言を書いたボードを持った人を見かけたことがあるのと、学寮時代に壁に貼られたポスターと勝手に部屋に入れてくるビラの中で見つけたことがある。残念ながら内容についてはしらず、授業で習った覚えも無いと思う(転校したりしてますので、私のいない時にやったのかもしれませんが)。
  • 映画を見たときは明治の風景というよりも、時代劇の雰囲気の感じを受けた。1884年といえば明治維新から17年しか立っておらず、首都の中心地ならともかく地域では江戸のままであるのがが、後から納得できた。竹やりを持って戦っている風景なども時代違いかと思ったが、戦時中でもそのようなことはあったらしいし、そう考えていくとそんなに昔ではないわけで、秩父事件から120年という月日は、そんなに昔のことではなく、時代の速さに驚かされる所である。
  • 人の怒りとは止まらぬ物なのだろう。実際彼らは、政府転覆という話へと進む行動を視野に入れていたはずであるが、それにしては計画性の無い話であるといわざるをえない。戊辰戦争を戦い、西南戦争を戦った、近代装備の政府に対して、3千人、いや1万人そろったところで、刀と猟銃の武器では戦いようが無いはずで、せいぜい警察を追いはらうのが限度なはずである。中心人物となった幹部がその所を理解していないはずは無く、それに対応するのが各地での蜂起であったのはずなのかもしれない。転覆はまだしも、政府が政策の変更として動かざるを得ない状況であることを求めたはずである。しかし、それらの準備を周到にする時間はなく、もはや破産を迫られている農民の怒りはとめようもない。その怒りの爆発が戦いとなったのではないだろうか。
  • 昔私は学生寮に住んでいたのだが、その時も大学当局との争いがあった。いってみれば、力のまったくない学生とそれを管理する側である。新寮の建替えに関する意見の食い違いから、電気料の値上げ、炊夫さん問題、入寮募集の停止問題、廃寮問題と結局つぶされてしまった。今考えてみれば、問題に対してどのような戦略で、どのような戦略で戦うかなど、終わりのほうにはまったく考えておらず、追い詰められてくると、ただ怒りをぶつけるだけで問題の解決にならなよねと思ったほどである。学生と大学当局の争いの問題点は、お互いに妥協点がない点である。はっきり言って大学側には何の権限もないだろう。文部省から言われた通達をそのまま伝えて執行しているだけであり、妥協も何も、決定した後に文句を言われてもしょうがないといった感じなのではないだろうか。寮の側でも終わりのほうでは、良識ある人間達が住んでいる自分達の意見で判断しているのではなく、一部の人たちの何か怪しい後ろ盾のほうで決定している事項をゴリゴリ何時間も他の寮生に語り、相手がいやになりもういいですと言うという形で決まった方針なので、お互いに手下どもで決まったことを言っているだけで、寮生は力で押す、大学は物量(いくらでも代わりの人間は居る)で押す、といった感じで意味のないことをしていたのではないかな、と思ったりするのである。これはおかしいのではと、すでに最初から傍観者となっていたわけですが。何年も続けて、方針が変わって風向きが少し良くなった時に、うまく妥協するということが出来なかったんだろうねという気がする。
  • そもそも死活問題と私の過去の体験をぶつけることがおかしい話なのであるが、要は怒りはとめるのが難しいといいたかったのです。そして、その私達の寮の争いがどのように見られていたかというと、変な格好し微妙に老けた人達が、自分達の勝手なことを何か訴えていると見られており、情報戦で学生さえ味方に出来ていなかったというのが現状でした。外から見ると、実際被害を受けている人達の熱意は伝わらないもので、温度差が酷いほど惹かれてしまうものです。理解を得るということは大変です。秩父事件の時代においても、都会と秩父のような山間部の生活は大幅に異なり貧富の差も烈しく、秩父の山奥で大人数の暴動が起ったとしても、都会の人達にその問題性が伝わりにくかったのではないか、そのために秩父事件が当時あまりよろしくない形で処理されてしまったのではないでしょうかね。勝手な意見ですいませんが、見た人間の感想です。現在では、復権がなされているそうですが、秩父事件の史実の詳細な解明がなされ、正しい姿が歴史として定着するとこを望みます。