ストーリー

  • 場所は北海道野付牛町、雪が降りしきる中で病床にある伝蔵が、北海道での名「伊藤房次郎」と名乗る前の名前「井上伝蔵」を妻と息子に示し、隠してきた半生を静かに語り始める所から始まる。
  • 明治初頭、日本が欧米と貿易していく上で、最大の輸出製品は生糸であった。山国秩父では、田の実りの少ない傾斜地で、養蚕を生業として生活しており、それらは横浜から外国へと出荷されていった。この当時は、山国の秩父は、隣接する山国の群馬や長野などと交流が深かった。
  • その状況の中、松方デフレによる生糸価格の暴落、軍備拡張の増税、さらに世界的な不況で生糸輸出の激減が追い討ちをかけ、借金による、高利の取り立てに破産する農家が続出する。生糸商家を営む伝蔵は、人々の窮状に心を痛める。
  • 一方中央では、板垣退助らによって日本で初めての政党である自由党が結成(1881)されており、秩父にも自由党の組織が作られていた。自由党は、国政が薩長らの一部の物に握られている専制政治を批判し、人間は自由・平等であるとの基本思想に基づき、国会開設(参政権)・憲法制定・地租の軽減などを要求した政治運動(自由民権運動)を行い、専制政府転覆を目指していた。秩父でも、自由党幹部の大井憲太郎を招いての演説会が行われ、政府の責任を追求した演説に、賛同した多くの人が入党をした。
  • 生糸の値段の上昇が見込めずさらに困窮する状況が明らかになっていく中で、後の困民党上吉田村小隊長の高岸善吉らは、利子返済の据え置き、借金年賦返済の請願運動を始める。伝蔵もこれに賛同。山中各地で集会を開き賛同者を募り、さらに加藤織平を副総理、大宮郷の顔役で代言人の田代栄助を総理として迎え入れ「困民党」を組織。警察署、高利貸しへ請願・交渉をねばり強く行なうが、ことごとくはねつけられる。さらに高利貸しと裁判所の贈収賄の事実も明るみとなる。
  • もはや武力に訴えるしかないことを決めた「困民党」は、自由党の本部とも連携をとり、政府転覆を目指す各地での一斉蜂起を狙い活動を行うが、もはや自由党は、政府による弾圧によって広範な国民を組織する展望も力量も失って、解散へと進んでおり、本部からの回答は慎むようにとのことだった。しかし、後の無い状況にある人々を抱える困民党は、党員からの強い要請を受けて、自分達が立ち上がることで、他の地域を引き込んでいくという背水の陣で武装蜂起することを決める。
  • 1884年11月1日、秩父郡吉田村の椋神社。午後8時に境内に武装した民衆3千余が結集し、田代栄助が困民党の役割を読み上げ出陣を命じ、武装蜂起が開始される。困民軍は、同日深夜には小鹿野町、翌日には郡都大宮郷を占拠し、さらに皆野町に進んだ。
  • 警察はもはや地域だけで解決できる問題ではないとして政府に対応を要請し、政府は憲兵隊や東京鎮台までを動員し、徹底した武力鎮圧を図った。近代兵器で武装した兵の前に困民軍は各地で敗退、群馬県山中谷をへて長野県南佐久まで転戦したが、11月9日に壊滅した。
  • 暴動を起こした罪により、田代栄助、加藤織平ら指導者をはじめ蜂起参加者たちは徹底して追及され、死刑12名(内執行8名)をはじめ3800余の人々が何らかの処罰を受けることとなった。事件参加者とその子孫は、火付け、強盗の類、"暴徒"と呼ばれ歴史の暗部へと追いやられていった。
  • 伝蔵は、責任を取るといった栄助と別れ、懇意のつてをたより2年間を蔵の中で暮らし、名前を変え北海道へと渡った。妻と娘には二度と会わず、娘にはいっさい自分の事を知らせず。北海道で新しく妻と子供達をもうけたが入籍をしないのは、自分が死罪を受けたものだからだった。伝蔵は最後に、妻に自分のことを伝えてほしいと言い、自宅で息を引き取った。