プロフィール

  • 出身:福島県 在住:仙台 専攻:物理学 探求:歴史、哲学、思想、宗教 趣味:登山、旅行、温泉、ピアノ
  • 学生時代は物理学を専攻して研究などをしていましたが、求めるものがなかったのでやめて、それからは哲学書など読んでどうすれば良いのか考えていました。そもそも物理学を始めたのは哲学的な理由からでした。
  • 先駆者が考えたことは、私が考えていたより遥かに年数を重ね深く思考し、それらの思想について私は理解したと言う事はとても出来ない。彼らの思想には多くの知恵が隠されており、思想を深める上では重要な機会となり、そこから学んだ思想は紙媒体で書き付けてある。しかし、かといって、それらの思想に自分が求める物があるという可能性が見出せたかというとそうではなく、むしろ自分で考えなさいと言われるばかりであった。
  • 哲学者というわけではないが、カミュの人の見方などは私には近いものがある。しかし、その行動へは行きつかない。自らの運命を認識し、自らの物として掴む「私は、すべてよし、と判断する」と叫ぶという所には遠い。以下は小説の一文である。
  • ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰返し繰返し、自分の重荷を見い出す。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後、もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとつひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上をめがける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに十分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと思わねばならぬ。
  • 私にとって世界は酷く凍てついている、そして自分の存在は重く病んでいる。私には私の生きるこの世界を手中に肯定して生きることなどは出来ない。むしろ、世界が流れるままに、社会が進むままに、見ているだけといった、諦めをもって私は生きている。そう、私は自殺する理由もないから生きているに過ぎない、生の漂泊者である。
  • 唯、その世界にいるだけ。そして緑深い森を歩き、山を登り、はるか遠くの空を見つめる。幾千年も生きた巨木、その間の光で生きる樹木、草花による多様性に満ちた森のさざめきは私にやすらぎをあたえる。木が弱り、キノコがはえ、森の小動物が食し、微生物により分解され、新たな芽を伸ばす苗床となる。これでいいんだという気持ちにさせる。廃棄された建設中の道路、朽ち果てコケの生えた建物、雨に打たれさびついた線路、夕焼けは世界を照らし、全てを紅に明るく染める。私はその中で世界を眺め、そして詩を紡いでいるのである。
  • 私の詩は、一人さみしく口笛を吹きながら野山を歩き、目に見える草木や目に見えない不思議な者達との会話の詩です。私には友人がいません。私が死んだ後、私の机の引き出しにひっそりと入っている言葉を読んでくれる友人がいません。だから、私の言葉の一つでも見つけてくれる人を探しています。