こんな所にも鳥がいるんだね

日比谷公園桜


仙台での桜の開花は20日頃だろうか。ここ東京は満開である。木の中にはピンクの花色が薄らぎ、早くも間から萌黄色の葉が開きだしている枝もある。
話は昨日の事。同じ時期に転勤となった友人と、お昼を日比谷公園で過ごしていた。池の辺りの木陰に座り、お弁当を食べる。私は周りの木々を見て、植わっている木々の違いなどを感じていた。例えばクスノキなどは、関東以南に分布する木であるので東北ではあまり見かけることはない。
その時友人はふと、こんなことを言った。「今までは気付かなかったけど、やっぱり自然はいいね。」「こんな所にでも鳥がいるんだね。」「公園に人が沢山いると、なんだか落ち着かないね。」「山が見えないんだよ、どちらを向いても。何か寂しいね。」
まだ東京に来て一週間しかたっていないのだが、早くもホームシック気味である。私はと言うと、電車で初めてスイカを使って興奮していた。私の方が都会に毒されてるようである。そのまま横で話を聞いていると、自分がラピュタのパズーになった気がしてきて、「僕が君を連れて行くよ」とか、そんなセリフがあったかどうかは別にして、言ってしまいそうな感じだった。
コメントの一つ一つを見ていきたい。一つ目のコメントは、都会の人がキャンプなどに行っても感じる所だと思うのでいいとして、二つ目はすばらしいのではないだろうか。私は心を打たれてしまった。まるで人間と建物と機械しかない国に来ているようなセリフである。まあ東京なんて所はそんなとこだと思うが。友人は無人島で鳥と共に暮らしていた人ではないはずだが、幼年時代を自然の濃い所で暮らしていたせいかそう感じたのかもしれない。心が空の様に透き通るセリフである。友人が鳥になって飛んでいきそうだった。
三つ目は、私も同様に思う。基本的に地方の公園は、常に人がほとんどいないもので、静かで葉擦れの音なども聞こえてきたりもする。桜の見ごろと言うこともあってか木よりも人の数の方がはるかに多い。もっとも会社の人に聞くと、花見のシーズンでなくても、お弁当を食べる人でいつも込んでいるようだ。大体公園が込んでいるという表現自体になんか違和感を感じる。
東京に行く前、以前に東京に転勤した事のある人の話しを聞いたのだが、仕事が忙しくて毎日会社と家とを往復している様な時なんかは、昼休みによく公園に行くそうだ。そして昼を何もせずにぼーっとして過ごしていると、そのまま会社に戻れなくなって、昼休みの時間を広げて行く様になる。行く前にそんな話を聞かせるのもどうかと思うのだが、廃人になる前に戻ってこれてよかったとは言いたい。
最後の山については感じる人は多いのかもしれない。東京での上司は九州の人なのだが、最初に東京に来たときの話を聞くと、やはり山が見えないのに違和感を感じたそうだ。私の生まれた福島県の中通地方なども盆地だから、360度山に囲まれている。盆地の真ん中に高い建物が建ったところで、山の高さなどには敵うはずもなく、人間はあくまでも自然に覆われた中で一つの存在として、大きなものの中で暮らしている。
山もなく海もなく、人間の作った建物がもっとも大きな存在あるような所では、人間が増徴していくような気がする。きっとろくでもない政策を作る人たちは、こういう所で暮らしているのではないだろうか。あの四角い形といい、高さといい、やな感じだ。朝起きて山を拝み、日が沈み山を拝む、将来はそんな所で暮らしたいと思う。
今回の友人のセリフは実にいい。今後に書く小説の中で活用させたい。