手を重ねて

今日の日重ねる没稿の、紙もファイルに重なりて、憂うことなく沈みゆく。また新たな没稿の詩がファイルへと加わることとなった。少し前に朝をテーマに書いた詩を応募していたのだが、佳作にも該当せずさようならと終わった。自分が情けない限りである。応募していたのは、アリス出版コンクール「詩・写真コンクール」であった。
しかし、入賞した作品を読んでみると、やはりすばらしい詩であって、選考委員の谷川先生のお言葉の通り、「これまでに接したことのない新鮮な表現」の作品が選ばれていると思う。音のリズム感もさることながら、一編の詩として完成しているといえる。
特に、特賞の詩はあきらかにすばらしいものである。自由を連想させる文から、悲しみ添えた夕方の表現の文へとわたり、「わかるかもしれない」と区切り、その形式を繰り返すことで読む人を作者の息遣いへと誘い、せつなさをカタカナの表現で書き出していく事で表現し、「夕焼け と呼ぶ」として、今回のテーマである朝・夕を表している。すばらしい、と書いてはみたが、コンクールのHPにもその作品が掲載されていないので、残念がら知ることは出来ない。私は応募していたので送ってきた入賞作品の結果パンフで見ているのである。
そういった事を踏まえて、改めて自分の作品を眺めてみる。いつものことであるが、私は募集の意図する所を間違って応募した感がある。朝・夕をテーマではなく、朝夕の雰囲気を漂わせる形で、自分の思いを表現する東北の景色を詠んだ。つまり、私が詠んだ主題は東北の一つの風景である。もしかすると、応募した作品のタイトルに、「朝」「夕」のどちらも入っていないのは私だけかもしれない。
一方で、表現としての新鮮さは「ぶどう」という点に私としては入れているつもりである。3文字づつの言葉の詩の中で、「ぶどう」という3文字の名詞を入れ込むことにより詩に鼓動を与え、一粒の「ぶどう」ということで一粒という始まりのイメージと新鮮な果物のさわやかな目覚めを入れ込んだ。
そして、太陽の光と新しい雲から生まれる朝にエントツという人工物を入れ込むことによって、美しく自然な風景の一方で、自分達の朝として始まるエントツの消えてゆかない不自然な煙を対比させ、それをながめる微妙な視点から朝の詩を作り上げていった、つもりではある。「ふたり」「あかく」「しろく」はエントツのこと。始めに煙突から出るモクッとしたブドウ雲から、次第に発電所が稼動していくことにより増えていく、小麦の房のような連続した煙たち。・・・深読みしすぎて、意図が伝わらなかっただろうか。
他に今回の重要な要素の一つである、一つの詩としての完結性ということでは、私はあまりそういう形で詩をよんでいない。今回の詩もその流れの中での一つである。最近詠んでいる短詩に見られるように、日々の詩を綴る事によって、人間としての私の流れを表している。それは、私が自然な形で消えていくことを求めて、生きている呼吸の静けさを詠み綴っているのであり、たしかに一つ一つは詩の一篇としてはいるが、これらは私が消えたときに完成する詩の一部を詠んでいるとも言えるからである。
最近は、何かがうまくいかなかったり仕事で惨めな思いをしたとしても、あまり感情としてひどい鬱状態へとは至らなくなってきた。そもそも日々の状態が低い状態で落ち着いているということもあるのだが、山のような心、森のような呼吸で自分が生きていけるようになったからかもしれない。もはや、日々を追って新聞を読んだり、テレビを見たりすることはなくなった。せめて最後には、山が蒼く見れる場所にいられるように。