田端文士芸術家村

田端文士記念館


昨日の夕方をおそった夕方からの激しい雨は今日の快晴をもたらし、ビルの隙間には青空が広がっている。私は二日酔いの残る頭を連れて朝から電車に乗り、山手線の田端駅へと向かった。
私は以前の日記の中で、大宮の盆栽村を紹介したことがある(盆栽村に出かける)。そこは盆栽を持っている人達が集うことによって、盆栽村という場所を形成した所であった。そしてここ田端も同じ様に、芸術家や文士達が集って、明治の終わりから大正、昭和初期にかけて芸術家村、文士村を形成していた場所である。そして現在その田端には、当時を記念して田端文士村記念館が作られ、文士達の住んでいた場所の位置やそこに集っていた人達の人間関係などの資料が展示されている。
田端駅の南口を降りて左に見える高い建物へと向かう。この建物の一階部分が記念館である。さっそく中に入る、受付の方はお疲れのご様子で腕を組みながらゆったりと座りこんでいる。入場無料なのでそのまま、机の上のパンフレットを取って中へと入った。
まず最初に、なぜここ田端に人が集う事になったのかということについて。
明治中期、ここ田端は「農業のほかの業を営むものなし」と当時の資料に記載されている程の雑木林や田畑の広がる閑静な農村であった。しかし、明治22年に上野に東京美術学校(現 東京芸大)が開校されたことにより、上野と台続きで便が良かった田端に美術を目指し・巣立った若者達が集うことになる。明治33年に小杉放庵(洋画)、36年に板谷波山(陶芸)、40年に吉田三郎(彫塑)、42年に香取秀真(鋳金)、44年に山本鼎(洋画)、などを始めとする画家・彫刻家などが田端に集い、画家を中心にポプラ倶楽部が創設され、田端は芸術家村と呼ばれるようになった。
ちなみにポプラ倶楽部の跡地は現在幼稚園になっていて、その脇の坂はポプラ坂と呼ばれている、この名前は倶楽部の名にちなんで付けられたそうである。私は田端を散策してその坂も歩いたのだが、かなり道の細い坂で見つけずらく標識もなかったので、何らかの案内が欲しいところではあった。話を戻そう。
そしてその後の大正3年に、当時学生だった芥川龍之介(小説)が田端に移り住み、5年には小景異情などの詩で有名な室生犀星(詩・小説)、9年には最近NHKで放映されたサトウハチロー、13年に室生犀星を師と仰ぐ堀辰雄(小説)、14年には詩人仲間の萩原朔太郎、15年には佐多稲子(小説)、昭和4年には小林秀雄(評論)、5年には中野重治(詩)、などが集い、大正から昭和にかけて田端は文士村と呼ばれるようになる。ただし、初期の文士村の中心であった芥川は、昭和2年に「唯ぼんやりした不安」という遺言をを残して自殺し、それを契機に室生犀星も田端を離れている。
以上が芸術村・文士村の簡単な概要である。
私は田端の街の、彼らがかつて住んでいたであろう場所を散歩したのだが、残念ながら現在は何の跡も残ってはいなかった。それは昭和の初めの東京大空襲で街のすべてが焼かれてしまったかららしい。そしてまた、それらの歴史を生かすための石碑や案内板等の試みはなされてはいなかった。パンフレットで散策コースを歩く分には、残念ながらあまり当時を味わう事はできない。
まあ散策の話は別として、私がこの芸術村・文士村で面白いと思うのは、同じ志を目指す人が集まった、と言う点である。そういえば漫画でも、漫画を書く人達が同じアパートに集まった、という話をどこかで聞いたことがある。集まるというのはどういう事だろうか。考えられるとすれば、同じ所に集まった方が、同じ分野を志す物同士語り合ったり、切磋琢磨したりする上で良いということ。また、集まることになった土地の雰囲気が、創作を行う上で良いと、かつての文豪達に選ばれたと言うことだろう。もし後者が大きいとするならば、当時雑木林だった田端が近代化されていく課程で、この街は次第に文豪達の好むところではなくなったのかもしれない。
こういっては何だが、創作を行うと言うことは酷く孤独なことのように思う。なぜならば創作という物は、自分の生み出したい物を直していく課程だと思える。そては一つ一つの作品に置いても納得いかない場合に懊悩を繰り返して作り直すことであり、また、自分が人生を通じて生み出していくもののすべての総体として、自分の最終的な方向へと紆余曲折を通じてたどり着く繰り返しであるからである。
自分の作品を作り上げていくこと、それは内面へと潜り込んで奥深くにある内蔵的ななま暖かいものに触りつつ形にしていく作業を繰り返していくこと。そのような中にあって人は、他と自分の内面にうずくまる物がたとえ異なっていても、深みという状況を知っておるものと、互いに相手を評価していこうということが働くのではないかと思う。その評価は互いを先へと進ませる内蔵を掴むような物ではないのか。かつての人達はそのようにして何か新しい物を作り上げていったのではないかと思うのである。
今はそのような人が集えるような場所はあるのだろうか。かつての人達が自分たちの夢を託して作り出したコロニーのような場所が。それとも知らないだけだろうか。今でも武者高次実篤の新しい村のような、コロニーを作っている人たちがいるのだろうか。ありとあらゆる場所に値札が付けられ、大地は昔のように自由ではない。人というものが生きていくためには、場所というものが選べなくなっているように思われる。今集まれるとしたら、それはネット上のスペースぐらいであり、から遠く離れた夢を見る者達の、空の上の空間での事なのかもしれない。
どこか地方の山の麓などで、数人の友人と語り合いながら何かを作り上げてみたいと、日差しの傾きつつあった田端の道の途中、そんな夢を見た。無論私にそんなに友人がいるわけではない。そして身体の悪い私などは、1年間も経たずに生活に困ることになるだろう。空の上の話である。

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