人の感情と思い出ということ

以下はいつもと異なり至極個人的なメモです。
私は後ろ向きな人間の様であり、いつも楽しい事を書いているわけではない。特に、メールではその傾向が強いらしく、否定的な発言が多いようだ。私のメールの用途としては、比較的直近の内容を書くことが多く、用事であったり、直近の出来事の感想などを書いて送ることが多い。用事については様々だが此処ではあまり問題ではない。
直近の感想というのは、旅行に出かけた後などにその時の感想を書いて送ったりしているものだ。個人的にそれを行っている理由としては、その感想を何も書かなかったとすれば、その旅行がまるで仕事の業務の様に、ノルマとして行っている味気ない物のように思われるだろうからだ。いや、私がそのように思っているから人との違いが表れるのかもしれない。だから、旅行から一日と経たないうちに、何らかの感想を書いて送ったりしている。
そういった時の感想は、帰宅後直ぐということもあり、その時感じた事をそのまま書くことになる。そしてその書かれる内容としては、印象としての起伏の激しい短期的な感情の変化が書き付けられることになる。しかし、私という人間は本来そういった短期的な所に生きている人間ではなく、深山に残る老木の如く、深呼吸しか出来ない人間である。それゆえに短期的な感情というのは肯定的な事ではなく、自分と合わないがゆえに否定的な事が残る。それゆえに後ろ向きな発言が増えるのだろう。
そして、その短期な否定は何と比較されるかと言えば、過去の記憶とであり、特に同様な行為を異なる箇所で行う過去との比較となる。まだ出かけたことのない場所への旅行とすれば、比較対象となるのは、過去に共に出かけた人間と共に行った行為との比較となる。そしてその長期的な記憶は、既に思い出となっている記憶で、長期的な経過に耐えた代え難い思い出である。無論必ずしも全てが良い思い出として残るかと言えばそうではない。私の祖父はかつて会津飯盛山で軍事訓練を行い、重たい荷物を背負って何往復もしたらしく、鮮やかな記憶として残っているが良い思い出となってはいない。
メールにて後ろ向きな発言として表れるのは、この短期的な感情と長期的な思い出が比較されるためでもある。まとめると、後ろ向きな発言がメールで増えるのは、メールが短期的な用途に使われることが多い事、私が長期的な人間であるために短期的な感情の起伏が合わないために否定的な感情が残ると言う事、そして長期的な思い出と短期的な記憶が比較されてしまうという事の3点が残る。
3点目についてはさらなる説明を要する。今回の旅行の案件において、私が長期的な思い出として保っているのは、友と過ごした時間であって、そのことにつきる。そして当時思い出と残されているのは、友と会うことが自由であり、時間的な制約があって無いような生活の中で、波が繰り返し浜辺を濡らしていく様な、大きな夕日が岬から海に沈んでいく様な、おだやかで満ち足りた月日の事である。あの時、確かに他に何一ついらないような、そういった気持ちになったものであった。旅行に行くと比較されるのはそういった記憶なのである。
さて、そのようなわけで後ろ向きな発言が増えるわけだが、対策としてメールを書くのを止めることにした。短期的な感情の変化が消えてからメールをしたのでは、話題が去った跡で扱いに困るだろうし、思えばこのように忠実にメールを出して話題の場を作っているのは私からの様な気がする。よって出さなくて特に困ることにもならないだろうと思う。そんなことを考えた。(2005.10.11)