マリーゴールド


午後からの会議の準備が珍しく午前中で終わったため、昼食を食べることが出来ました。いつものように日比谷公園へ散歩に行くと、広場の方が賑わい、ガーデニングショーが行われていました。普段は立ち入り禁止の大芝生広場に、ガーデニングの作品などが飾られて、紅葉で色づく前の公園は花で彩られることになりました。
奥の大噴水の辺りまで行くと、こちらの方では高校生のテントが立って、フランクフルトなどを焼いたりしていました。調べると、こちらの方では全国産業教育フェア東京大会(農業高校部門)が開催されていて、農業高校の生徒達が彼らの生産物の販売を行っています。何か探していたわけでは無かったのですが、色とりどりの園内の花を見ているうちに、花が一鉢欲しくなりました。
私が東北にいた頃は課の机の上にリンドウの鉢植えがあったのですが、東京本社の部屋の中には花がありません。部屋の中にある植物は、部屋の入り口付近にあるサボテンの鉢植えと、私の机の上にある観葉植物のテーブルヤシだけです。私は花を置こうと思い、高校生達からマリーゴールドの鉢植えを購入しました。
石川啄木の「東海の小島の磯の白砂に」から始まる有名な「我を愛する歌」に

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ
花を買い来て
妻としたしむ

という箇所があります。父が仕事を終われ一家で岩手を去り、家を支えることになった啄木が北海道で点々とする生活の荒波にもまれ、かつての理想を追うような詩を捨て去った後の赤裸々な生活の歌。職を得てしっかりと日々を行っている人がみな偉く見え、かといってそれを妬むわけでもなく、ひさしの下の少し暗くなった店先で咲いているけなげな花を買ってきて、自分を頼みにして付き従っている妻と二人でしたしもうとする。そういった感情が伝わってきます。
私が花を買い、そして心の中にそういう詩が思い浮かぶ。この詩の何処かはかない感じは、私の心と似ているのかもしれません。日比谷公園は美しい、売っている高校生達も若さに輝いている。しかし私はこの町で、物を言うことも出来ず、ただ咲いている花とのみ親しむものなのです。そして私はそういった物に心を寄せる事の出来る者です。
私は植物が育つという事を疑問に感じたことはありませんが、私の課の人と話すと、植物を買ってきても直ぐ枯らしてしまうとのことでした。植物は光の程良く当たる所に置いて水をあげなければ弱ってしまいますが、あまり枯らすことは無いのではないかと思います。おそらくそれは、植物の方に心が向かなくなってしまったり、忘れてしまったりするために、枯れてしまうのではないでしょうか。
東京のように終始忙しくしていたのでは、次第にせわしなく動いている物、大きな問題になる物にのみ気が向かうようになって、季節の変化に向けて少しずつ動いている物、風に揺らされなければ動くことがないような物には気付かないようになってしまいます。水をあげるもを忘れていくようになるのかもしれません。自分の心が豊かであるか、静かに息づいている物にも心が開いているかを見つめるために、植物を育てるのはいいかもしれません。
花を持って会社に戻ると、廊下ですれ違った同僚に何買ってきたの?という目で笑われましたが、私が東北の山の奥から来て、森を歩き木々を愛するモリゾーであることは、机の上のテーブルヤシと、モリゾーの小さいぬいぐるみが付いたキーホルダーによって周知されています。机の上の資料を机の下のチューブファイルの上にどけで花を置き、机に彩りを添えました。しかし、会議が終わって机に戻ってみると、花の匂いが強すぎたのか虫が寄って来ていました。さすがにこれでは周囲に迷惑がかかるので会社には置けません。花は家に持って帰ることにしました。帰宅の電車の中にも、少し花の香りを差し上げておきました。