苦悩者

何をしてきた
何をしてきたかと自分を責める
自分を嘲ける此の自分へ
そして誰も知らないとおもふのか
自分はみんな知つてゐる
すつかりわかりきつてゐる
わたしをご覧
ああおそろしい

いけない
いけない
私に触つてはいけない
私はけがれてゐる
私はいま地獄から飛びだしてきたばかりだ
にほひがするかい
お白粉や香水の匂ひが
あの暗闇で泳ぐほどあびた酒の匂ひが
此の罪悪の激しい様様なにほひが
おお腸《はらわた》から吐きだされてくる罪悪の匂ひ
それが私の咽喉《のど》を締める
それが私のくちびるに附着《くつつ》いてゐる
それから此のハンカチーフにちらついてゐる

自分はまだ生きてゐる
まだくたばつてはしまはなかつた
自分はへとへとに疲れてゐる
ゆるしておくれ
ゆるしてくれるか
神も世界もあつたものか
霊魂《たましひ》もかねほまれもあつたものか
此の疲れやうは
まるでとろけてでもしまひさうだ
とろけてしまへ

何だその物凄いほど蒼白い顔は
だが実際、うつくしい目だ
此の頸にながながと蛇のやうにからみついたその腕は
ああゆるしておくれ
そして何にも言はずに寝かしておくれ
私はへとへとにつかれてゐる

なんにもきいてくれるな
こんやは
あしたの朝までは
そつと豚のやうに寝かしておいておくれ
とは言へあの泥水はうまかつた
それに自分は酔つぱらつてゐるんだ
此の言葉は正しい
此のていたらくで知るがいい

而《しか》も自分は猶、生きようとしてゐる
自分の顔へ自分の唾のはきかけられぬ此のくやしさ
ああおそろしい
ああ睡い
そつと此のまま寝かしておくれ

だがこんなことが一体、世界にあり得るものか
自分は自分を疑ふのだ
自分は自分をさはつてみた
そして抓《つね》つて撲《なぐ》つてかじつてみた
確に自分だ
ああおそろしい

自分は事実を否定しない
事実は事実だ
けれどもう一切は過去になつた
足もとからするすると
そしてもはや自分との間には距離がある
そしてそれはだんだん遠のきつつ
いまは一種の幻影だ
記憶よ、そんなものには網打つな

おお大罪悪の幻影!
罪悪はうつくしい
あの大罪悪も吸ひついた蛭のやうにして犯したんだ
けれどその行為につながる粘粘した醜い感覚
それでもあのまつ暗なぬるぬるしてゐる深い穴から
でてきた時にはほつとした
そして危く此の口からすべらすところであつた
この涎と甘いくちつけにけがれた唇から
おお神よと
そして私は身震ひした
それはさて、こんやの時計ののろのろしさはどうだ
迅速に推移しろ
ああ睡い睡い
遠方で一ばん鶏《どり》がないてゐる
もう目がみえない
黎明は何処《どこ》までちかづいて来てゐるか
このままぐつすり寝て起きると
そこに新しい人間がある
ゆふべのことなどわすれてしまつて
はつきりと目ざめ
おきいで
大空でもさしあげるやうな背伸び
全身につたはる力よ
新しい人間の自分
それがほんとの自分なんだ
此の泥酔と懊悩と疲労とから
そこから生れでる新しい人間をおもへ!
彼が其時吸ひこむ新鮮な空気
彼が其時浴びる朝の豊富にして健康な世界一ぱいの日光

どこかで鶏が鳴いてゐる
ああ睡い
ぶつ倒されるほど睡い
自分はへとへとにつかれてゐる
ねかしておくれ
ねかしておくれ

そして自分の此の手を
指をそろへて此の胸の上で組ましておくれ
しかし私に触つてはいけない
私はひどくけがれてゐる
たつた一とこと言つてくれればいい
誰でもいい
全人類にかはつて言つておくれ
何《なん》にも思はず目を閉ぢよと
それでいい
それでいい
ああ睡い
これでぐつすり朝まで寝られる

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