詩のpickup(家族・友人について)

山村暮鳥さんの詩の中から、家族・友人に関する詩を数点選びました。

  • 家族について
    • 朝朝のスープ
      (或る朝、珍しいスープがでた それをはこぶ妻の手もとは震へてゐた)
    • 家族
      (子どもを見ると 子どもはしつかりその母に獅噛みついてゐる)
    • 父上のおん手の詩
      (父の手は手といふよりも寧ろ大きな馬鋤だ)

    • (虹を 一ばんさきにみつけたのは なんといつても 子ども達だ)

    • (子どもの寝てゐるかたはらで その母はせつせと着物を縫つてゐる)

    • (妻は心配さうに低く わたしの顔をのぞきこんで言つた)
  • 友について
    • あるとき
      (友は一すぢの糸のやうな記憶をたどりはじめた)
    • 秋ぐち
      (渡り鳥よりいちはやく そして何処へ行かうとするのか)



朝朝のスープ



其頃の自分はよほど衰弱してゐた
なにをするのも物倦く
なにをしてもたのしくなく
家の内の日日に重苦しい空気は子どもの顔色をまで憂鬱にしてきた
何時もの貧しい食卓に
或る朝、珍しいスープがでた
それをはこぶ妻の手もとは震へてゐたが
その朝を自分はわすれない
その日は朝から空もからりと晴れ
匙《さじ》まで銀色にあたらしく
その匙ですくはれる小さい脂肪の粒粒は生きてきらきら光つてゐた
それを啜《すす》るのである
それを啜らうと瀬戸皿に手をかけて
窶《やつ》れてゐる妻をみあげた
其処に妻は自分を見まもつてゐた
目と目とが何か語つた
そして傍にさみしさうに座つてゐる子どもの上に
言ひあはせたやうな視線を落した
其の時である
自分は曾《かつ》て自分の経験したことのない
大きな強いなにかの此の身に沁みわたるのを感じた
終日、地上の万物を温めてゐた太陽が山のかなたにはいつて
空が夕焼で赤くなると
妻はまた祈願でもこめに行くやうなうしろすがたをして街にでかけた
食卓にはさうして朝毎にスープが上《のぼ》つた
自分は日に日に伸びるともなく伸びるやうな草木の健康を
妻と子どもと朝朝のスープの愛によつて取り返した
長い冬の日もすぎさつて
家の内はふたたび青青とした野のやうに明るく
子どもは雲雀《ひばり》のやうに囀りはじめた

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家族



わたしの家は庭一ぱいの雑草だ
わたしは雑草を愛してゐる
まるで草つぱらにあるやうなわたしの家にも冬が来た
鋼鉄《はがね》のやうな日射の中で
いのちの短いこほろぎがせはしさうにないてゐた
わたしらはそのこほろぎと一しよに生きてゐるのだ

日一日と大気は水のやうに澄んでくる
いまはよるもよなかだが
こほろぎはしきりにないてゐる
わたしは寝床《ねどこ》の上ではつきりと目ざめた
子どもを見ると
子どもはしつかりその母に獅噛《しが》みついてゐるではないか
そしてぐつすりねこんでゐる
おお、妻よ
お前もそこでねむれないのか
しんしんと沁み徹るこの冷気はどうだ
もつとおより
一ツ塊《かたま》りになるまで

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父上のおん手の詩



そうだ
父の手は手といふよりも寧《むし》ろ大きな馬鋤《からすき》だ
合掌《がっしょう》することもなければ
無論他人《ひと》のものを盗掠《かす》めることも知らない手
生れたままの百姓の手
まるで地べたの中からでも掘りだした木の根つこのやうな手だ
人間のこれがまことの手であるか
ひとは自分の父を馬鹿だといふ
ひとは自分の父を聖人だといふ
なんでもいい
唯その父の手をおもふと自分の胸は一ぱいになる
その手をみると自分はなみだで洗ひたくなる
然しその手は自分を力強くする
この手が母を抱擁《だきし》めたのだ
そこから自分はでてきたのだ
此処から遠い遠い山の麓のふるさとに
いまもその手は骨と皮ばかりになつて
猶もこの寒天の痩せた畑地を耕作《たがや》してゐる
ああ自分は何にも言はない
自分はその土だらけの手をとつて押し戴き
此処ではるかにその手を熱い接吻《くちづけ》をしてゐる

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    ――夢二兄におくる

虹を
一ばんさきにみつけたのは
なんといつても
子ども達だ

子どもはいふ
虹、虹、大きいな
だがかうして私が手をひろげると
あれよりももつともつと大きい
虹は
この中にはいつてしまふ
それをきくと
その母もまただまつてはゐない
まあ、なんて綺麗なんでせう
まるでみぢんこででもこしらへたお菓子のやうにみえる
拝みたいやうね
あんなのをみてゐると
此処もまたお伽噺《とぎばねし》の国ですわねえ

いまさらのやうに
その壮大なる一瞬間の天景にうたれた自分は
あまりのうれしさに
小便を
地に垂れずにはゐられなかつた

ふたたびみたときには
もう、さすがの虹も
ぼんやりと
うすれはじめた

ぼんやりと
そのてつぺんのはうから
虹はうすれた
ちやうど自分のそのうつくしいすがたを
わたしたちにちらりとみせて
それえもう役がすんだといふやうに

だが、子ども達は
それをみると
腹を立ててどなりちらした
私達のみつけた虹だ
父ちやんが
小便なんかひつかけたからだと
そして呶鳴《どな》つてやめなかつた

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子どもの寝てゐるかたはらで
その母はせつせと着物を縫つてゐる
一つの手が拍子をとつてゐるので
他の手はまるで尺取虫《しゃっくとりむし》のやうにもくもくと
指さきの針をすすめてゆく
目は目でまばたきもしないで凝《ぢつ》とそれを見てゐる
音すら一つかたともせず
夜はふけてゆく
なんといふしづかなことだ
子どもの寝息もすやすやと
針は自然にすすんで行く
むしろ針は一すぢの糸を引いて走つてゐるやうだ

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わたしは天《そら》をながめてゐた
なつのよるの
海のやうな天を

陰影《かげ》の濃い
日中のひどいあつさはどこへやら
よるの涼しさにひたつてゐると
まるで青い魚のやうだ
かきねのそとでは
ひよろりと高い蜀黍《もろこし》が四五本
水のやうなそよかぜ
広葉をばさばささせてゐる
さかりのついてる豚が小舎からぬけでて
ぶうぶううろつきまはつてゐる
きまぐれな蟋蟀《きりぎりす》が一ぴき鳴いてゐる
もう秋が
すぐそこまできてゐた

こどもをねかしつけてゐた妻が
こどもがねついたので
足音を盗むやうにそこへでてきた
すつかり晴れましたね
わたしはだまつてゐた
なんて綺麗なんでせうね
いつみてもお星様は
わたしはそれでもだまつてゐた
わたしはそれをうるさいとさへおもつた
すつきりと澄透つた心を
掻きみだされたくなかつた
わたしは天をながめてゐた

妻は心配さうに低く
わたしの顔をのぞきこんで言つた
どうかなすつて
その声はしめつてゐた
すこしふるへてゐるやうだつた
けれどしんみりと美しかつた
わたしははつとした
そして跳返されたやうに口を切つた
まあ見な
永遠の寂しさだ
ただそれだけ
それぎりわたしはなんにもいはず
妻もまたなんにもいはず
あたりはしいんと
天では星がきらきらしてゐた
ふたりはそれをながめてゐた

星はもう
どれもこれも
みな幸福さうであつた
みな幸福にみたされてきらきらしてゐた
おほきいほし
ちひさなほし
一つぽろりとひかつてゐるほし
たくさん塊つてゐるほし
わたしはうれしくつてうれしくつて
なみだが頬つぺたを流れた
妻をみると
妻も瞼をぬらしてゐた
わたしはたうとうたまらなくなつて
びつくりしてゐる妻をぎゆつと抱きすくめた
だきすくめられて
妻は深い溜息をもらした
わたしはそれをはつきりと聴きとつた

わたしは言つた
これ、こんなに手が冷くなつた
妻はそれにこたへるでもなく
だがさゝやくやうに
もうよほど遅いのでせう
廚《くりや》の中のこどもがごろりと寝がへりを打つたやうだ
星が一つすうつと尾を曳いてとんだ
こんどは妻が言つた
ほんとにねるにはをしいやうですね
ほそぼそと沁みこむやうな
純《きよ》らかなその声
わたしはほろりとして消えてしまひたいやうな気持で
而《しか》もきつぱりと
首でも括《くく》るならこんなばんだ
けれど生きるといふことは
それ以上どんなにすばらしいことだか

星は一つ一つ
千万無数
まるで黄金《きん》の穀粒でもふりまいたやうだ
ばらばらとこぼれおちさうだ
それが空一めん
そしてきらきらとひかつてゐた
わたしたちはねるのもすつかりわすれてしまつて
冴えざえした目で
しみじみ天をながめてゐた
よるのふけるにしたがつて
星はいよいよ
強くきらきら光りだした
もう草も木もひつそりした
さつきの豚もきりぎりすもどこへかゐなくなつて
めざめてゐるのは星ばかりだ
それをわたしたちはながめてゐた
手をのばしたら指尖にでも吸ひつきさうにみえる空、そして星

おきたやうだよ
さうですね
わたしたちはこどもの泣き声におどろかされて
またべつべつの二人になつた
もうねようか
えゝ
妻はいそいで廚《くりや》にはいつた
そして中から
おさきへといつた
それをきくとなんとなく、たゞなんとなく
どうしてもたちあがらないではゐられなかつた
わたしはたちあがつた
雨戸をぴしぴししめながらも
わたしは天をながめてゐた
それから寝床に這ひこんで
ごろりと横になるにはなつたが
わたしはまだ天をながめてゐた
もうねたかい
返辞がない

わたしはめをとぢた
天の星はひときはきらきらとひかりはじめた

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ある時



友はいま遠い北海道からかへつたばかり
ながながと旅のつかれにねころんだ畳の上で
まだ新らしい印象をかたりはじめた
うまれてはじめて乗つた大きな汽船のこと
それで蒼々した海峡を
名高い波に揺られながら横断したこと
異国的な港々の繁華なこと
薄倖詩人の草深い墓にまうでたこと
トラピスト修道院の屋根がはるかに光つてゐたこと
古戦場で珍らしい閑古鳥をきいたこと
さまざまなことを友は語つた
それから時にと前置をしてしめやかにその言葉を切り
友は一すぢの糸のやうな記憶をたどりはじめた
それはもう黄昏近い頃であつた
と或る田舎の小さな駅で
身なりだけでもそれとしられる貧しい女が
一人の乳呑児を背にくゝりつけ
もひとりの子の手をひいて友の列車にあわただしく駆けこんだ
車中はぎつしり一ぱいだつた
その女はよほどつかれてゐるらしく
自分の席をやつとみつけて背中のこどもを膝におろした
そしてほつといきをついた
友のそばに無理矢理に割込ませられた大きなほうの子ども
それは女の子であつた
汚い着物とみにくい顔面《かほ》と
段々と列車の動揺するにつれ
その動揺にほだされてくる心の弛みにがつくりと
みんなのやうにいつかその子も首を垂れてしまつた
はじめの間は何やかとその子のことがぞくぞくするほど気になつたが
次第に身体《からだ》をまつたく投げ出し
その小さな首を友の胸のあたりに凭《もた》たせかけてなんの不安もなく
すやすやと鼾《いびき》さへはじめたその無邪気さ
友にはそれが可愛ゆくなつてきた
可愛ゆくて可愛ゆくて何ともたまらなくなつてきた
しみじみと
汽車は用捨なくはしり走つた
そしてぱつたり停つた
そこは彼等の下車駅であつた
母にめざまされたその女の子は黒い瞳をぱつちりと開いた
友はそれをみた
それに人間のまことの美をみた
みたと言ふより寧《むし》ろ解したといふべきだ
子どもは立ちあがり
ちらとふりむいてにつこりと而も寂しく
「おぢさん、さよなら」と後にも前にもたつたひとことこれだけ言つた
友はだまつて挨拶した
かなしさがぐつと咽喉までこみ上げたので言葉の道がなくなつたのだと
こんな話を目にでもみえるやうにしながら
もうその眼瞼をぬらしてゐるのだ
ああ、たまらない
ああ、こんなのが消えてうせゆく人間の言葉であるのか

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秋ぐち



    TO K.TOYAMA

さみしい妻子をひきつれて
遥遥とともは此地を去る
渡り鳥よりいちはやく
そして何処《どこ》へ行かうとするのか
そのあしもとから曳《ひ》くたよりない陰影《かげ》
そのかげを風に揺らすな
秋ぐちのうみぎしに
錨はあかく錆びてゐる
みあげるやうな崖の上には桔梗や山百合がさいてゐる
紺青色の天《そら》よりわたしの手は冷い

友よ
おん身のまづしさは酷すぎる
而《しか》もおんみの落窪《くぼ》んだその目のおくに真実は汚れない
生《いのち》を知れ
友よ
人間は此の大きな自然のなかで銘銘に苦んでゐるのだ
しづかに行け

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