2005-08-09から1日間の記事一覧

あとがき

「父のゐる庭」は私の二つ目の詩集である。 書物を編むことの甚だ不手際な私は「愛する神の歌」を出してからこちら、ついつい七年もの長い年月を閲してしまつた。作品もその間かなりの数になつた。従つて、こんど詩集に収録するにあたつても、前後の作品に自…

父が庭にゐる歌

父を喪《うしな》つた冬が あの冬の寒さが また 私に還《かへ》つてくる 父の書斎を片づけて 大きな写真を飾つた 兄と二人で 父の遺物を 洋服を分けあつたが ポケツトの紛悦《はんかち》は そのままにして置いた 在《あ》りし日 好んで植ゑた椿の幾株が あへ…

冬に……

冬に 木枯の つと 庭の外をすぐる夜なり 山の上《へ》の人葬《はふ》り場に 父のおん骨を拾ひし夜なり 軽々と ああ軽々と 我が手に抱かれたまひしものか 父のおん骨 かたみに兄と抱きて 山をくだれば 冬の靄《もや》たちこめて 目の下に 燈火《ともしび》う…

幼い嘆き

子供のときから 不器用だつた 最初は 幼児の遊びの中で それを発見《みいだ》して 哀しかつた 急に沈黙したり はにかんだりした 父が 私の不器用を叱ると きまつて 私は泣いたものだ 父自らが 若干不器用な人だつたから 草いきれ 空の眺め 私が坐《すわ》る…

紀の国

「紀《き》の国ぞ はや 湊《みなと》につきたり」 舟のをぢ かたみに呼びかひ うつとりと 眸《ひとみ》疲れて 父に手をひかれし心地 犬の先曳《ひ》く車もあれば 海の辺《べ》に 柑子《かうじ》の実光りて その枝のたわわなる下《もと》 かいくぐり かいくぐ…

起臥

面影にたちくる父に 語らまほし 今日の日のみいくさ 湧きあがる日の本の勝鬨《かちどき》 亡き父は フランダースの戦もしらず ふたとせの音 しもつき半ば 眉白き齢《よわひ》にもあれで みまかりぬ 短きやまひに 祖父《おほちち》の顔みしらぬ 稚子ひとり 小…

野火

天ざかる鄙《ひ》にしあれば ある宵は 山に煙みゆ 白梅のふふむ村里 琴さげて をとめの帰り路 わらべ叱る媼の声も 百《もも》年のむかしさながら この身おく 草の臥屋に 妻のもる夕餉の飯《いひ》の 白々と息はく ころは たち出《いで》て また見るとしもな…

早春

浅い春が 好きだつた―― 死んだ父の 口癖の そんな季節の 訪れが 私に 近頃では 早く来る ひと月ばかり 早く来る 藪陰から 椿の蕾が さし覗く 私の膝に 女の赤児 爐《ろ》の火が とろとろ燃えてゐる 山には 雪がまだ消えない 椿を剪《き》つて 花瓶にさす 生…

海の香《か》のする 御社《みやしろ》の庭に 母に抱かれて 私の子供が遊んでゐる その子供の肩に 鳩がとまる 鳩がとまる 一つ 二つ 三つ そして一つ飛び また二つ飛び去つた 私はこの子のために祈る 父として ああそれは 私の久しい間《あいだ》の願望 吾《…

父はよく私を 穴のあくほど しげしげ見た もう 成人してからも 「お前はよく肥《ふと》つてゐる」 さう云つては 手や頬を抓《つね》つた 私はそれが嫌だつた 煩《うるさ》いとさへ考へた こんな 昔のことどもが 今日 思ひ出されたのも ほかでもない 夜ふけの…

月夜

姉は二十九で死んだ つまり その人の 二十九歳までしか 私は知らない 故郷の 古い庭が いい時候になると 姉はそこの椅子に坐つてゐた 花が好きだつた 物の成長が好きだつた それだのに 自分の生命は あんなに 気忙《きせは》しく 燃やしてしまつた 花瓣《く…

寂しい村で

野を踏んでくる やさしい風が もう昨日から吹き出した 木や風が俺の詩になつた あの 童話時代が還《かえ》つてきたやうだ 俺は頭の上に氷嚢《ひようなう》をのせてゐる 窓の景色に 雪の山が見える (この氷と云ふ奴も あそこに行けば まだ一杯詰つてゐる) …

太郎

妻のお腹の中に 太郎と呼ぶ子供がゐる―― そいつが 近頃では 夜になると 手をのばし 足をひろげたりする 妻は とき折 寝床の上に坐り直す ぼんやり考へてゐる すると 俺も思案を初《はじ》める 日本の美しい子供の伝説には 腹掛をした裸の少年がゐる 俺は肥り…

林間詩

夜の静寂《しじま》 我が部屋ぬちに 小さき雨蛙の訪れ 見事なる造化の 緑の背を つと 構へたる さまの哀れ はしきやし幼き者を! 燈の下に我は追わず 星月夜 林の間を縫ひて 一《ひと》しきり歌きこゆ 隠れ住む 僧たちの酒《さか》ほがひ 目次に戻る

山懐

近くの空の星が きらきらと光つてゐた 遠くのものは―― 私は眼さめて ひとしきり 嬰児《えいじ》のなき声をきいた 何におびえてか 又 ひとしきり ないてゐる そして 私は知つてゐる 旅の夜ふけは 私も そんな寂しさを 今 ごくりと のみこんだばかり 私のひと…

その三

晴れた日のわかれ

――眠つてゐると 雲が部屋の中まで這入つてくる 私は起きていつて窓をとざした こんな手紙の書ける男だつた 若い男はもう死んでゐた だが私には その死がきびしく考へられなかつた 雲が湧く 木の花の眺め 日の照つてゐるあたりには あの男は やはり生きてゐた…

大倉村の手紙

北国の夏は 納屋に巣くうてゐた鵲《かささぎ》が昨日飛び立つた 空は底がぬけたやうに真青だ 私の心も容易に農夫となつて 一言ふたこと田舎の訛《なまり》りが話せるやうだ 寂しいだらうと君は云ふ 明るい気持に住んでゐる 私はさう云つて答へよう だが こん…

冬の日

屋根の上で鶏が鳴いてゐた 澄明《ちようめい》な空と冷たい空気 これこそ 私が選んだ季節だ 枯れた薄を 自動車がしいて行つた 夕日が一つの家の中を いつまでも照してゐた 心の内なる促しが かうして 私をはこびさる はこびする 野の末に そして 山あひに 山…

静かな少年

もろこしを呉《く》れないかと訊《たづ》ねると 少年は当惑して「このもろこしは駄目だよ」と云つた 霜がふるまでかうやつて置く 美しい霜がくれば もろこしも実るのだ さう云つて説明した 農家の小窓から女が首を出してゐた 少年の説明をじつと聴いてゐた …

山中

老人が大きなニツケルの時計を私に示してくれた 「おわかりですか」 山の夜の老人は暗かつた 白い鳥居の姿があざやかであつた 時計の字は まるで私に読めない かち かち かち 一秒を刻んでゐる 一分を刻んでゐる 私の心は容易に時計のなかに住んでゐた どき…

眠れる少年

傷つくことが そんなに苦痛にはならなかつたのか いろいろの昨日が さまざまな哀傷であつても そしてその都度に 身体一杯に嘆かねばならなくとも 小さな身体で泣くほかに すべがなくとも 太陽が瞼を静かに撫で 草の如く癒やされて行くだらう 草のごとく いろ…

天の川

星の夜《よ》は 相抱《あいいだ》いた姉弟《はらから》の情 口元のなほ幼く美しい姉娘《あねむすめ》と 真直《ますぐ》な少年の心が 別々な物想ひに 沈みながら 互いにしつかりと抱き合つてゐる 星の夜《よ》は 何事も自然に思はれる素直な魂には ライネル・…

半日

林の中をあるくのは快適に違ひない 少し上ずつたやうな心持ちで 美しい名前を持つた娘とつれだつて 樹のの間を洩れるきらきらした陽をあびながら しかもその陽の在処《ありか》などはすつかり忘れ果てて それは まるであの北欧あたりの小説の一頁のやうに 何…

桑畑

――里山辺と云へる村に遊行して 日の光の鮮やかな田舎に 私の心は醒めてゐた 天つ日のふり注ぐ畑に 現身《うつしみ》は目醒めてゐた 田舎の家常茶飯に慣れては 古びた婦人傘《パラソル》の色も なほ うつとりと美しく 畑を越え 桑畑を越えて 白雲の静かに湧く…

白椿

その一輪が 私に 何ものか形を与へてくれる かつて 私の喪《うしな》つた智慧《ちえ》が かうして お前に見出《みいだ》し得られるとは…… (老師が手づから その庭の早咲きの一輪を剪《き》つて 私の妻に与へたと 海の声の響く町の 昼ちかい坂道を 大切に支…

その二

風景書家

火山の麓は秋が立つた 私は書を描きに来てゐた 「昨《こぞ》の薔薇こぞの薔薇」と歌つてゐた 麦藁帽の少女達が一人づつ去つて行つた 日にけに光線《ひかり》が和らいで来たが 風景が若さを喪ふことを焦慮して 毎日三脚椅子を持つてあるき初めた 養魚池の傍に…

小児の絵筆の想ひ出に

西の空を指さして 静かな子供が母親に云《い》つた ――僕は あんな空の色が好きだ あんな処《ところ》に行つてみたいと 近郊の空の 遠い雪の残つた山脈の上は 著しく茜《あかね》をさしてゐた その涯《はて》へと 一《ひと》むれの鳥は飛翔し 哀《かな》しく…

虫をめづる夜

寂しさに慣れると 私は山間の小部落に滞在の夜々 そこの夜の市を見てあるいた 少しの青味のある秋風に酸《す》い林檎の市が立つてゐた カンテラの匂ひと その部落の湯に浸る人々の体臭のなかをあるき廻つた 風呂敷を持つた黄昏の客のいくたりかに行き逢つた …