あとがき

 「父のゐる庭」は私の二つ目の詩集である。
 書物を編むことの甚だ不手際な私は「愛する神の歌」を出してからこちら、ついつい七年もの長い年月を閲してしまつた。作品もその間かなりの数になつた。従つて、こんど詩集に収録するにあたつても、前後の作品に自から趣向《おもむき》を異にするものがいくつかまじつてくるやうな結果となつた。

 私の父は昭和十四年十二月二十九日に亡くなつた。初冬の、たいへん寒さの感じられる朝であつた。
 私の父は庭の好きな人であつた。そのためか父の追憶はともすると私をふるさとの庭に誘ふのである。庭に植ゑる花弁のうちでも、椿の花など――絢爛ではあるが素撲さをうしなはない、ああいう種類のものが好きであつた。
さうして庭石は喜ばず、父の所謂「散歩する庭」が理想であつた。「散歩する庭」は又私達の少年時の「子供の遊ぶ庭」でもあつた。私と兄と、今一人の少女――私の姉をも数へる事が出来た。しかし、この姉は父よりは一足さきに、今では他の星に住んでゐる。
 ふるさとの、片隅に陀介の白い花の咲く庭には、今日では私の年老いた母が孤りで住まつてゐる。さうして、夕方、まるで追憶のやうな微かな音をたてて枝折戸を閉ざすのも、この老いた母の役目となつた。

私の膝の上には女の赤児が坐つてゐる。この幼児は、ちやうど父の亡くなつた翌々年、昭和十六年の五月に生れた。在りし日の父に、見せたかつたもの、果したかつた事柄、噫、それらはもう数限りない。この小さな赤子も叉、その中の一つであらう。
 私は久し振りで、この稚拙な一本の詩集を編み、さうして、題するに「父のゐる庭」とした。私の心を育ぐくんでくれたものを記念するにほかならない。
 雲の切れ間、ささやかな前庭に出て、私は不器用な手つきで椿の一枝を剪つた。

      亡き父に
  椿など花など手折りたまひしか

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ルビは《》で示した。
旧字の一部は現代表記に直した。
底本:「津村信夫全集」角川書店(昭和49年)
初出:「愛する神の歌」臼井書房(昭和17年)