言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど
おれは此処《ここ》で待つてゐなくてはならない
此処は空気もかすかで蒼《あを》く
葱《ねぎ》の根のやうに仄《ほの》かに淡《あは》い

決して急いではならない
此処で十分待つてゐなければならない
処女《むすめ》の眼《め》のやうに遥かを見遣《みや》つてはならない
たしかに此処で待つてゐればよい

それにしてもあれはとほいい彼方《かなた》で夕陽にけぶつてゐた
号笛《フイトル》の音《ね》のやうに太くて繊弱だつた
けれどもその方へ駆け出してはならない
たしかに此処で待つてゐなければならない

さうすればそのうち喘《あえ》ぎも平静に復し
たしかにあすこまでゆけるに違ひない
しかしあれは煙突の煙のやうに
とほくとほく いつまでも茜《あかね》の空にたなびいてゐた

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