2005-03-22から1日間の記事一覧

後記

茲《ここ》に収めたのは、「山羊の歌」以後に発表したものの過半数である。作つたのは、最も古いのでは大正十四年のもの、最も新しいのでは昭和十二年のものがある。序《つい》でだから云ふが、「山羊の歌」には大正十三年春の作から昭和五年春迄のものを収…

蛙声

天は地を蓋《おお》ひ、 そして、地には偶々《たまたま》池がある。 その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く…… ――あれは、何を鳴いてるのであらう? その声は、空より来り、 空へと去るのであらう? 天は地を蓋《おお》ひ、 そして蛙声《あせい》は水面に走る。 よし…

春日狂想

1 愛するものが死んだ時には、 自殺しなけあなりません。 愛するものが死んだ時には、 それより他に、方法がない。 けれどもそれでも、業《ごう》《?》が深くて、 なほもながらふことともなつたら、 奉仕の気持に、なることなんです。 奉仕の気持に、なる…

正午

丸ビル風景 あゝ十二時のサイレンだ、サイレンだサイレンだ ぞろぞろぞろぞろ出てくるわ、出てくるわ出てくるわ 月給取の午休《ひるやす》み、ぷらりぷらりと手を振つて あとからあとから出てくるわ、出てくるわ出てくるわ 大きなビルの真ッ黒い、小ッちやな…

米子

二十八歳のその処女《むすめ》は、 肺病やみで、腓《ひ》は細かつた。 ポプラのやうに、人も通らぬ 歩道に沿つて、立つてゐた。 処女《むすめ》の名前は、米子と云つた。 夏には、顔が、汚れてみえたが、 冬だの秋には、きれいであつた。 ――かぼそい声をして…

冬の長門峡

長門峡に、水は流れてありにけり。 寒い寒い日なりき。 われは料亭にありぬ。 酒酌《く》みてありぬ。 われのほか別に、 客とてもなかりけり。 水は、恰《あたか》も魂あるものの如く、 流れ流れてありにけり。 やがても密柑《みかん》の如き夕陽、 欄干《ら…

或る男の肖像

1 洋行帰りのその洒落者《しやれもの》は、 齢《とし》をとつても髪に緑の油をつけてた。 夜毎喫茶店にあらはれて、 其処《そこ》の主人と話してゐる様《さま》はあはれげであつた。 死んだと聞いてはいつそうあはれであつた。 2 ――幻滅は鋼《はがね》のい…

村の時計

村の大きな時計は、 ひねもす動いてゐた その字板のペンキは、 もう艶《つや》が消えてゐた 近寄つてみると、 小さなひびが沢山にあるのだつた それで夕陽が当つてさへが、 おとなしい色をしてゐた 時を打つ前には、 ぜいぜいと鳴つた 字板が鳴るのか中の機…

月の光 その二

おゝチルシスとアマントが 庭に出て来て遊んでる ほんに今夜は春の宵《よひ》 なまあつたかい靄《もや》もある 月の光に照らされて 庭のベンチの上にゐる ギタアがそばにはあるけれど いつかう弾き出しさうもない 芝生のむかふは森でして とても黒々してゐま…

月の光 その一

月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた お庭の隅の草叢《くさむら》に 隠れてゐるのは死んだ児だ 月の光が照つてゐた 月の光が照つてゐた おや、チルシスとアマントが 芝生の上に出て来てる ギタアを持つては来てゐるが おつぽり出してあるばかり 月の光が…

また来ん春……

また来ん春と人は云ふ しかし私は辛いのだ 春が来たつて何になろ あの子が返つて来るぢやない おもへば今年の五月には おまへを抱いて動物園 象を見せても猫《にやあ》といひ 鳥を見せても猫《にやあ》だつた 最後に見せた鹿だけは 角によつぽど惹かれてか …

月夜の浜辺

月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちてゐた。 それを拾つて、役立てようと 僕は思つたわけでもないが なぜだかそれを捨てるに忍びず 僕はそれを、袂《たもと》に入れた。 月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちてゐた。 それを拾つて、役立てようと …

言葉なき歌

あれはとほいい処にあるのだけれど おれは此処《ここ》で待つてゐなくてはならない 此処は空気もかすかで蒼《あを》く 葱《ねぎ》の根のやうに仄《ほの》かに淡《あは》い 決して急いではならない 此処で十分待つてゐなければならない 処女《むすめ》の眼《…

あばずれ女の亭主が歌つた

おまへはおれを愛してる、一度とて おれを憎んだためしはない。 おれもおまへを愛してる。前世から さだまつてゐたことのやう。 そして二人の魂は、不識《しらず》に温和に愛し合ふ もう長年の習慣だ。 それなのにまた二人には、 ひどく浮気な心があつて、 …

幻影

私の頭の中には、いつの頃からか、 薄命さうなピエロがひとり棲んでゐて、 それは、紗《しや》の服なんかを着込んで、 そして、月光を浴びてゐるのでした。 ともすると、弱々しげな手付をして、 しきりと 手真似をするのでしたが、 その意味が、つひぞ通じた…

一つのメルヘン

秋の夜は、はるかの彼方《かなた》に、 小石ばかりの、河原があつて、 それに陽は、さらさらと さらさらと射してゐるのでありました。 陽といつても、まるで硅石《けいせき》か何かのやうで、 非常な個体の粉末のやうで、 さればこそ、さらさらと かすかな音…

ゆきてかへらぬ

――京 都―― 僕は此の世の果てにゐた。陽は温暖に降り洒《そそ》ぎ、風は花々揺《ゆす》つてゐた。 木橋の、埃りは終日、沈黙し、ポストは終日赫々《あかあか》と、風車を付けた乳母車《うばぐるま》、いつも街上に停《とま》つてゐた。 棲む人達は子供等は、…

永訣の秋

蜻蛉に寄す

あんまり晴れてる 秋の空 赤い蜻蛉《とんぼ》が 飛んでゐる 淡《あは》い夕陽を 浴びながら 僕は野原に 立つてゐる 遠くに工場の 煙突が 夕陽にかすんで みえてゐる 大きな溜息 一つついて 僕は蹲《しやが》んで 石を拾ふ その石くれの 冷たさが 漸《ようや…

曇天

ある朝 僕は 空の 中に、 黒い 旗が はためくを 見た。 はたはた それは はためいて ゐたが、 音は きこえぬ 高きが ゆゑに。 手繰り 下ろさうと 僕は したが、 綱も なければ それも 叶《かな》はず、 旗は はたはた はためく ばかり、 空の 奥処《おくが》…

春宵感懐

雨が、あがつて、風が吹く。 雲が、流れる、月かくす。 みなさん、今夜は、春の宵《よひ》。 なまあつたかい、風が吹く。 なんだか、深い、溜息が、 なんだかはるかな、幻想が、 湧くけど、それは、掴《つか》めない。 誰にも、それは、語れない。 誰にも、…

独身者

石鹸箱《せつけんばこ》には秋風が吹き 郊外と、市街を限る路の上には 大原女《おはらめ》が一人歩いてゐた ――彼は独身者《どくしんもの》であつた 彼は極度の近眼であつた 彼はよそゆきを普段に着てゐた 判屋奉公したこともあつた 今しも彼が湯屋から出て来…

わが半生

私は随分苦労して来た。 それがどうした苦労であつたか、 語らうなぞとはつゆさへ思はぬ。 またその苦労が果して価値の あつたものかなかつたものか、 そんなことなぞ考へてもみぬ。 とにかく私は苦労して来た。 苦労して来たことであつた! そして、今、此…

雪の賦

雪が降るとこのわたくしには、人生が、 かなしくもうつくしいものに―― 憂愁にみちたものに、思へるのであつた。 その雪は、中世の、暗いお城の塀にも降り、 大高源吾《おおたかげんご》の頃にも降つた…… 幾多《あまた》々々の孤児の手は、 そのためにかじか…

除夜の鐘

除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 千万年も、古びた夜《よる》の空気を顫《ふる》はし、 除夜の鐘は暗い遠いい空で鳴る。 それは寺院の森の霧《きら》つた空…… そのあたりで鳴つて、そしてそこから響いて来る。 それは寺院の森の霧つた空…… その時子供は父母…

残暑

畳の上に、寝ころばう、 蝿《はへ》はブンブン 唸つてる 畳ももはや 黄色くなつたと 今朝がた 誰かが云つてゐたつけ それやこれやと とりとめもなく 僕の頭に 記憶は浮かび 浮かぶがまゝに 浮かべてゐるうち いつしか 僕は眠つてゐたのだ 覚めたのは 夕方ち…

思ひ出

お天気の日の、海の沖は なんと、あんなに綺麗なんだ! お天気の日の、海の沖は まるで、金や、銀ではないか 金や銀の沖の波に、 ひかれひかれて、岬《みさき》の端に やつて来たれど金や銀は なほもとほのき、沖で光つた。 岬の端には煉瓦工場が、 工場の庭…

お道化うた

月の光のそのことを、 盲目少女《めくらむすめ》に教へたは、 ベートーベンか、シューバート? 俺の記憶の錯覚が、 今夜とちれてゐるけれど、 ベトちやんだとは思ふけど、 シュバちやんではなかつたらうか? 霧の降つたる秋の夜に、 庭・石段に腰掛けて、 月…

閑寂

なんにも訪《おとな》ふことのない、 私の心は閑寂だ。 それは日曜日の渡り廊下、 ――みんなは野原へ行つちやつた。 板は冷たい光沢《つや》をもち、 小鳥は庭に啼《な》いてゐる。 締めの足りない水道の、 蛇口の滴《しづく》は、つと光り! 土は薔薇色《ば…

頑是ない歌

思へば遠く来たもんだ 十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気《ゆげ》は今いづこ 雲の間に月はゐて それな汽笛を耳にすると 竦然《しようぜん》として身をすくめ 月はその時空にゐた それから何年経つたことか 汽笛の湯気を茫然と 眼で追ひかな…