詩とは

詩ってなんだろう。そういうタイトルの谷川俊太郎さんの詩の本がありました。谷川さんはその本のなかで、さまざまな詩の形、音のリズムや表現・文の構造など色々な形を示して、詩そのもので答えようとしました。
私は詩を作り始めて3年ぐらいですが、詩をひっそり書いてきて(公開もせず日記のように一人書き溜めていたので)、次第にそんなことを考え始めるようになりました。詩を書く前は、俳句を読んだり、散文を書いたりしていました。
詩を自由に書いていくといっても、まったく何もない所から創っているのではなくて、好きな詩人の詩、例えば私であれば立原道造高村光太郎、最近では山村暮鳥の詩などから、感じられる音のリズムと表現の方法などを体ににじませて、そして自分の見つけた世界の姿や衝動などをそのリズムに合わせて、また時には戦わせて新しい表現を創っていくわけです。
過去の詩人たちの詩を読んでいると、やがて詩を書くのをやめて小説などに中心が移ってしまった人もいますが、人それぞれの音のリズムと見えている世界の背景の違いこそあれ、やはり詩に特有の、何かその中に流れる大切なものが、なんとなく見えてくるわけで、やはり詩という形式で表現するべき事が適切な事があるように思えます。
例えば、俳句などで重要であると考えるものは季語であり、そして5・7・5という韻律であると考えられます。この季語は文字の通り季節の言葉であり、そこには自然を微細なまでに捉えた言葉の一つ一つに、その自然との対話で生きてきた人達の風土が含まれてくるわけであり、言葉の意味も時代と共に変わっていくものであります。そして、日本語は単調なリズムであると言われますが、誰もが認めるこの5・7・5と言うリズムに合わせて世界を読み上げていくわけです。
5・7・5という形式は、非常に文章としては短く、詩のように季節や感情の移り変わりというものを、一つの句の中に読み上げることは非常に難しいはずです。しかし一方で、一つ一つの言葉に含まれる含意を最大限に活用して、誰にでも入りやすい形式で、言葉の一つ一つを究極的に選び、目の前に移る景色全体や、一日の景色の変化などを捉えてもいくものです。しかし、一方で一句で感情の移り変わりを読み上げていくのは難しいと思われます。(与謝蕪村「春の海 ひねもすのたり のたりかな」「月点心 貧しき町を 通り抜け」)
そして、詩の形式の俳句との違いと言うのは、俳句に形式があるのに対して、詩は形式から自由であり、詩を詠む人それぞれが皆異なる形を取ることも可能であると言うことです。明治初期の長文の定型詩から始まり、藤村島村らが5・7調のリズムを保ちながらも、さまざまな形の詩へと取組み、そして萩原朔太郎中原中也とこの辺になると、次第に個人個人の独自のリズムによって詩が詠まれるようになり、現在の詩などを見ると、独白的な物かや、他人の目から見るとどういった調子で読めばいいのかわからない物までさまざまにまで発展していると見受けられます。
しかし、インターネットにより距離の概念がなくなりつつある中でも、日本の端でひそやかに暮らしているものとしては、詩壇の中心がどういった方向に向かっているかわかりませんが、現実の状況と同じく、一部の人達のみ間でわかるといった、世界が細分化しているように思えます。私はこの度、自分の詩を見返して、詩とは何かなど考えているわけですけど、とても人様に理解いただけねような詩も多く、非常に反省しているところです。昔も昔も、志を同じくするものが集まって同人となるのでしょうが、それは理解が可能なもの同志が集まるのではなく、方向性を同じくするものが集まっているのであって、わからないものを内輪で創り続けていくのはまた別のことです。
よって、やはり詩と言うのもまた、日本語の言葉のリズムを重んじて、誰でもが朗読してそれを感じることが出来るようなリズムである必要があると思います。ただし、方言などは別で、それらは長い時をかけて創られてきたものであり、十分活用できる言葉であります。そもそも、日本はこんなに細長く風土も歴史も違うのですから、皆同じであるほうが不自然なことです。そして、そのリズムの詩が単に自分のものだけにらならないためには、ある程度人をひきつけるような要素も必要であり、そういった表現についても考えなくてはいけないと言うことがあります。
たいてい詩を作るときなどは、何かお題目があるわけではなく、非常に深く世界に取り込まれた時などに詠んでいるわけですが、その取り込まれている状況で詠んでも、結果しか言葉に出てこなくて、取り込まれている感覚が言葉として抜けていたりするものですから、何でこんな事について詠んだんだろう、ということになってしまいます。だから、自分が詩を詠んだ状況へと、人を取り込むための最初の数行の表現・語感は非常に重要であり、よく検討する必要が有ります。こういったことは、人の振り診て我が振り直せ、とでも言いましょうか、長年の風雪に耐えた有名の人の詩ではなく、現代のインターネットに投稿するような自分と同じ人の詩を詠むことが非常に参考になります。
また、他に要素を上げるとすると、やはり自分が置かれている状況などが上げられるます。ただし、人間の生活の上での感情なんかは誰でも詩に含ませていくわけで、形式ばっていた時代なら現実的な生活に根ざした詩の重要性も高かったのでしょうが、むしろ今では詩の中でありのままの自分を出していく方が自然になっているでしょう。含ませる必要があるのはもっと深いもの、自分が負ってきた過去と言いましょうか、自分の根を張っている風土などだろうなあと思います。
私は、幸いなことに、日本を皆同じにしていく情報の発信源の首都圏にすんでいるわけではなく、本州の端に住んでいるのだから、あまり多くの人に知られていない大切な事を書き出していく機会に恵まれているわけで、宮沢賢治までいかないにしても、地方の事などをもっと旅をして詠んでいければ、それだけで一つの意味があるのではないかと思います。個人的な考えですが、もっと世界の端のほうで詩を作る人が増えると、異なる音、独自の声が増えるわけで、地方がもっと明るくなると思っています。
そして、色々試しながら詩を詠んでいると、あとから見返して本当に情けなくて、消したいと思う詩もたくさんあるわけです。けれど、そういった物も自分の歴史の一つであり、その時に自分が考えて作ったものであって、「今書かなければ忘れてしまう」というぐらい人間は忘れていってしまうものだから、紙切れと共に捨てるよりは、すこしでも形にして残しておいた方が良いと思います。そういった情けない詩も、日記のような後から見返しれば、どの人の詩に影響を受けたかや、どのような思想を持っていたかなどの事を再び考えることが出来、次へと進むためのキーになるだろうと思います。
詩の要素として、
・言葉のリズム
・自分の世界に引きつけるための語感
・自らの生き様
・地域の風土
こういったものを、考慮して詠んでいければ、すこしでも意味のある詩になりうるのではないでしょうか。