公園で考える

昭和記念公園


昭和記念公園で何をしていたかというと、ただ寝ころんで話をしていた。そして、寝っ転がった時に気づいたのだが、どうも重要な物を忘れてきた。それは酒である。この世界で生存していく上で、酒というのは必ずしも必要な物ではい。しかし、この社会で生きていくためには必要な物である。酒という飲み物は、何も考えなくさせるのにきわめて有効だ。いやな仕事を続けて休日をひたすら待つとき、休日が終わってしまって明日から仕事に戻らなくてはいけない時、酒を飲んで寝ることによってすべてを忘れ、そしてなぜか朝早起きをするというすぐれた商品だ。
しかしのどかな休日である。たまには酒が無くても何も考えずにすごせるだろう。さて、公園を見回してみる。私達が寝ている原っぱの真ん中の木は、ほどよく枝を半円状に広げ、大きく木陰を作っている。この木へと向かうとき、遠くから木の種類を当てようとして、友人は「がじゅまる」、私は「えのき」と推測したのだが、2人ともはずれで正解は「けやき」であった。普段見慣れているケヤキの姿は、横の方に広がらず上の方に枝を伸ばしている。だがそれは、街路樹だから横が切られて上の方が残っているだけで、こちらのほうが自然なのかもしれない。まあ友人よりは、私の方が当てが近かったと思う。そもそも「がじゅまる」は亜熱帯の樹木ではないのか?
今日はここからが言いたい所なのだが、この公園はいくら広いといっても、自然な環境で植物が育っているわけではない。公園というのはそもそも、市民が休息したり散歩したりできるように植物を配置した所であり、自然を観察しに行こうと言って、子供達を連れてきたのでは間違った事を教えることになる。樹木の名前はプレートが付いているので、非常に勉強になるのだが。
そもそも、こんな原っぱが雨量の多い日本に普通にあるわけはないし、ましてや背の高い木が一本だけ中央にはえているわけはない。高い大木があると言うことはそれなりにその土壌は豊かだと言うことなのだから、その周りにもその土地の気候条件に合った樹木が同じような高さで育つはずであろうし、その下にはあまり光りを必要としなくても育つ低木が、樹木のモザイク模様の間の光を元にして育ち、その下にはシダ植物や草などがはえるはずである。こういう所に行って自然と語っては行けない。せめて山の中にでも連れてって、複雑な生存の世界を見せなくてはいけないはずである。
私なども幼少の時は、都市で育った者だからろくに自然界という所をしらずに、さも人間が絶対的な物であり、この社会で何かをなしていくことが重要なことのように思っていたが、一歩外に出るとそんなことはない。人間は社会に向き合っている前に、世界という存在の中に向き合っているのであって、社会で通常語られている価値にごまかされて、世界の中で自分の道を探すことを怠ってはいけないのである。TVや週刊誌に踊らされる人間になっては、単にその道の人達が作り出して金を得ようとする奴隷として使われるだけであり、社会のネズミとなって日々を追いかけて暮らすだけの人間になってしまう。やはり、この世界に存在する物であるならば、社会を飛び出し、広い生命の世界を感じるべきであると私は思う。
結論としてだが、人間は森や山の中で暮ら暮らすことによって、社会で価値があると言われている物を単に選択して受け入れるのではなく、人間と言う物が自然の中にあふれる生命体の中の一つの生命にすぎないものであることを認識し、自分自身で生きる道を探さなくてはならないのだと思う。