メロンパンに見る物価の違い

今日の東京は朝から太陽が照りつけ、GWを前に仕事の能率は著しいく減衰していく。体全体が動くことを望まない。だが一日中会社に居ることは避けたい。しかたがないのでワイシャツの袖をめくり昼の繁華街へと繰り出した。一日の食費は千円。給料は要求している。いつもの通り「さくら水産」にて500円の定食を食べる。ここはご飯とみそ汁のお代わりが自由なうえ、卵とのりも好きに取れる。ただし、おかわりのご飯が切れていることも多い。
ここオフィス街では、昼の休憩時間が少ないサラリーマンをねらった千円もする定食が蔓延している。ここさくら水産は、私が食べられる数少ない店であると思っている。他に食べられるのは、マクドナルド、松屋、立ち食いそば屋などだ。色々と周りの人にも聞いたりしているのだが、安い定食屋の開拓は進んでいない。仙台なら300円もあれば、「めしのはんだや」で十分な食事が出来るのだが、仙台と東京では物価が異なるようだ。
昼食を食べた帰り道に、メロンパンを売っている移動式の店がある。ここのメロンパンはなんと150円もする。仙台でも同じような移動式のメロンパンの店を見かけて買ったことがあるが120円もした。同じ品物でも1.25倍の物価の差がついている。しかし、メロンパンに120円という値段自体ひどく高いような気がする。
一般的に言って物は、店を構えている所より移動式の方が安い。店舗を持たなくて良いからだ。レストランよりは弁当の方が安いだろう。しかしメロンパンに限っては、店で買っても外で買っても値段が一緒、むしろメロンパンだけに着目してみれば高いこともあるだろう。これが私には非常に納得がいかないので、一度買って食べて以来買わないことにしている。
昔はメロンパンが好きだった、というよりメロンという食べ物にあこがれていた。当時メロンは高級な果物だった。もちろん今でも高級であると私は思っている(ちなみに私の親の世代になると、バナナが高級果物になるそうだ)。よって、メロンに類するもの、メロンソーダについてもメロンと用語に引かれてドリンクバーなどでよく飲んだものだ。無論メロンの果汁が1%も入っていないことは知っているが、あの不必要に緑色に輝く合成着色料の色に、何か中毒的なものを感じていたのかもしれない。早く安くなり(せめて80円ぐらいに)庶民の食べ物になってくれる事を祈る。
今日はそのメロンパン屋で、メロンパンのラスクなるものが販売されていた。ラスクというのは、パン薄く切り粉砂糖を塗って焼いたお菓子だ。ためしにこれを一袋買ってみた。一袋6切れ入りぐらいで100円だった。アスファルトが熱気を跳ね返しビルの窓を曇らせる中、ラスクの袋を持って公園のベンチへと向かう。開いてつまんでみると、特ににおいもしない。出来立てなら多少メロンの匂いがするのかもしれないが、暑さのせいで街中に漂う熱気の匂いしか感じられない。
食べるとほんのりメロン味と砂糖の甘さが感じられるが、これはハズレではないだろうか。ラスクとしてのメロンパンを別に作っているのか、それともメロンパンのあまりの生地でつじつま合わせに作っているのか、形の悪かったメロンパンをさらに焼いてみたのか、ラスクのかたさに安定がない。端の方の部分が硬くて味があり美味しいのだが、6つ全部が硬いわけではなく、端の部分でまれにそういう部分があるということなのだ。ラスクのメロン味ではなく、メロンパンを少し硬くして砂糖を振ったというのが正解のようだ。この気温の所に置いてあるのも味が消えていく原因になるようなきがする(タープで覆ってはいたけど)。
また一つ無駄づかいをしてしまった。学生時代の困窮した時代を思い出し、「欲しがりません生存に必要なもの以外は」、という精神に戻らなくてはいけない。世はGWである。無駄づかいをしないようにしよう。人々が浮かれていたとしても、人は一人ひとり違うのだ。人がお金を使うというときに自分も費やすというのは、需要と供給の法則により、最も費用がかかる効率の悪い方法だ。人とは逆の方向で進めばよい。博物館や美術館などは平日に行ったほうが、すいていてジックリ見られるのである。