八木重吉について

  • 八木重吉は明治31年、東京都南多摩郡堺村(現町田市)で農業を営む八木家の次男として生まれる。高師時代に教会に足を運び洗礼を受け、熱心なキリスト教信者となる。校内の詩の会にも出席しこの頃詩を書き始めたとされている。高師最後の年には人生の伴侶となる島田とみと出会っている。その後とみと結婚し、兵庫県御影・千葉県東葛飾で英語の教員として働き、現代社会の醜悪さへの反感、信仰と生活の間での懊悩、死へと向かう病気を蝕みながら、とみと子供への愛の中で多くの詩が編んでいき、30歳の若さで世を去った。
  • 重吉の生前の詩集は「秋の瞳」一冊、死後1年経ってから「貧しき信徒」が刊行された。それでも重吉の詩はあまり広まっていなかった。重吉の詩は広まるようになったのは、死後20年以上たって信仰の詩として注目されるようになってからである。死後20年たって詩集「神を呼ぼう」が刊行される。その頃になってから病院や信仰をもつ人達の間で重吉の信仰を中心とする詩が読まれるようになった。
  • 重吉の詩は短詩が多い。その一つ一つの詩が、心の琴線に触れるような純粋な詩である。そしてその詩群は単にキリストを賛美する詩ではない。キリストが教えるこの自然界に対しても身をゆだね、動物や植物そして岩や太陽に対しても神の息吹を感じいているよな詩。静寂な湖に天上から一粒の雫が落ちるように、空へと消え去り行く透明な雪のように、言葉の表現がこめられている。、私達の身の回りの動きの一つ一つ、草や花が成長し移ろいゆくという当たり前のことを当たり前として受け入れ、その世界を生きていくという姿が感じられる。
  • そしてその中で詠まれている言葉は聖書に語られる特別な人の名前や物語ではない。普段私達の生活の中での言葉である。しかしその言葉の組み合わせは、私達の底には流れていても捉えられていない世界に思える。重吉の詩はその心の奥底世界と繋がっている所を語る。それに加え言葉の調子、文章を細かく音を切り空白をいれ、重吉の世界のリズムに読む人を導く。これこそが詩の最も重要な要素なのではないかと思われるほどだ。7・5調から自由になって詩と何かというものが曖昧になっており、キャッチフレーズや単なる散文までもが詩という名称で扱われている現代において、詩というものにはリズムが重要であるということを改めて学ばせる詩であると思う。
  • 私自身は宗教上の特定の神様を信じているわけではない。そして会った事もない。しかし、この世界が存在している以上何らかの力が働いているとは思っている。何かが揺らいで始まったとしても、器を揺らすことは必要であるし、その始まりが自らの絶望や悲しみから生じたものであったとしても、もとは一つのきなものがあったというように考えている。
  • そして私は今、この世界に身をゆだねてもはや自分が何かをしようとする意思はまったくなく、流れるままに暮らしている。ただ出来れば、それは社会が作り上げた流れではなく、多様な生命と自然が織り成す中での自然な姿でありたいと思うだけだ。重吉の詩に読まれる社会は、私の暮らしている社会とまったく異なる。重吉だけではないが、なんと昔の詩人達の周りには、自然の生命が溢れていたことか。人のみがあるような現代社会。こんな世界では時を刻む詩は生まれて来るのだろうか。
  • 自分で詩を作っている人間としては、つい語りたいことを散文的な文章が長々と語ってしまうこともあるが、心の奥の流れを伝えることが重要であり、重吉の透明なで美しい表現からは多くの学ぶべき心がある。詩を書いている人間であるならば、一度重吉の詩に触れてみるのはいかがだろうか。