津村信夫の年譜

明治42年
神戸市葺合地区に津村秀松、久子夫妻の一女二男の末子としてうまれる。父の秀松は神戸高等商業学校の教授をしていた。
大正 4年
葺合区熊内町の雲中尋常高等小学校尋常科に入学。
大正11年
尋常科を卒業し、雲中校の高等科に通学。このころ父が大阪鉄工所の社長に就任し、月の半分を東京で暮らすようになる。
大正13年
高山樗牛国木田独歩を愛読する。
昭和 元年
家族と共に軽井沢に避暑し、室生犀星を知る。島崎藤村石川啄木の詩歌に親しみ、自らも詩作を始める。
昭和 2年
中学校を卒業。慶應義塾大学経済学部予科に入学。東京麹町区に移る。
昭和 3年
軽井沢に避暑し、室生犀星を兄と尋ねる。高田町に白鳥省吾を訪問し、省吾の主宰する同人詩誌「地上楽園」に、初めて詩「夜間飛行機」を発表。
昭和 5年
丸山薫と文通を始め、丸山に兄事するようになる。
昭和 6年
父の親友の次女内池省子を知り、信州で暑中休暇を共にすごす。
室生犀星の紹介で、「今日の詩」に詩「葱」「青年期」を発表。「三田文学」に詩「水蒸気、母」を発表。
兄の知り合いの植村敏夫の紹介で、山岸外史や中村地平を知る。山岸の主宰する同人誌「あかでもす」に兄、植村、中村とともに作品を発表。
兄、植村、中村と信夫で「四人クラブ」を結成し、同人誌「四人」を5号まで刊行。
昭和 7年
慶應義塾大学経済学部本科に進級。フランス語学習のため、アテネ・フランセの初等科(夜間)に入学。
入院中の三好達治を見舞い交友を深める。
省子との恋愛に破れる。「四人」四月号に省子との別れを記念した詩「小扇」ほかを発表。「センパン」に「林間地で」ほかを発表。「季刊・文学」に兄と共に、旧作詩8篇と詩「雪の膝」「海の思ひ」を発表。
昭和 8年
丸山薫を訪ねる。「四人」や「あかでもす」の同人による文学研究会「木曜会」に参加。室生犀星を通じて、堀辰雄や坂本越朗を知る。
「文藝」に詩「若年」ほか2篇を発表。「帝国大学新聞」に詩「日記」を発表。
昭和 9年
長野で小山昌子と知り合い、交際するようになる。
水上滝太郎邸で開かれていた「水曜会」に出席、「三田文学」の執筆者らを知る。丸山薫の推薦で「四季」の同人に加わる。四季を通じて、葛巻義敏、立原道造らを知る。
「文藝」に詩「愛する神の歌」「我が家」を発表。太宰治の「青い花」に詩「千曲川」他3篇を発表。
昭和10年
慶應義塾大学を卒業し、保険会社に勤務する。
四季社から処女詩集「愛する神の歌」を自費出版する、出版記念会が四季関係者によって催される。
「四季」に詩「抒情の手」、丸山薫論「郷愁について」を発表。
昭和11年
室生犀星夫妻を晩酌人として昌子と結婚。目黒区に新居を構える。
神保光太郎とともに信夫は四季の実務を担当する。
現代日本詩人選集」に「津村信夫詩篇」として詩「ある雲に寄せて」ほか2篇が収録。
昭和12年
辻野久憲、中原中也結核で死去。「四季」は追悼号を発行。
昭和13年
保険会社を辞す。
小説を書くことを志し、小説「風雪」「坊の秋」を構想。
佐藤春夫の「新日本」に詩「ある遍歴から」を発表。
昭和14年
立原道造死去。「四季」は追悼号を発行。
萩原朔太郎の主宰する「パンの会」に助講として出席。
昭和15年
「文藝世紀」に同人として参加。
抒情日誌「戸隠の絵本」を「ぐろりあ・そさえて」から刊行。
父の遺著「春秋箚記」「春寒」が刊行され後書を添える。
萩原朔太郎編集の「昭和詩鈔」に詩「夕方私は途方に暮れた」ほか4篇が収録される。「現代詩人集・第二巻」に24篇が収録される。
昭和16年
長女初枝誕生。神奈川県大船町に転居する。日産自動車会社内青年学校で教師を務める。
丸山薫編集の「四季詩集」が刊行され、詩「詩人の出発」ほか四編が収録。
昭和17年
第二詩集「父のゐる庭」を臼井書房から刊行。
昭和18年
健康不調のため授業を休講とする。築地の大東亜病院に入院。
「文学界」に詩「冬に入りて」を発表。
昭和19年
第三詩集「或る遍歴から」を湯川弘文堂から刊行。
6月27日死去、享年35歳。
信夫死去の日を刊行日として「四季」廃刊となる。
昭和20年
善光寺平」刊行。
昭和23年
兄の編集で、矢代書店から総合詩集「さらば夏の光よ」、小詩集「初冬の山」刊行。



(白凰社「津村信夫」年表 参考)