心 安らかなることを求めて

私の友人で旅をしているMRMが、私の所に立ち寄ってくれました。(友人MRM HP:虚構の塔)。彼の一年間にわたる日本一周自転車での旅も終わりに近づき、今後は仙台を定住先として仕事を探すそうです。旅人生活を一年間続けた彼の言葉は、実体験に基づき語られたもの。少し前の記事になりますが、思うところがあったので引用します。

会社をやめて、自分探しの旅にでかけて、
やりたいことがみつかる、ということはなかなかないようです。
私もはなから期待しておらず、なんかキッカケがあれば儲け程度に思って旅をしています。(旅それ自体が目的なのはいうまでもありませんが)

彼は会社を辞めて旅を始めたぐらいですから、何らかの意図があったのだと思いますが、旅人生活を実際に送り、その生活も一年間を過ぎ、客観的に自分を今見つめ直した結果の発言のはずです(日記ですので書きぶりが軽くなっていますが)。
その彼の旅を私は評価しています。日本の田園地帯を自転車でまわる旅をして、自分とは異なる生き方をしている人や、自然の恵みを活用して暮らしている人々に触れる機会を、自ら農作業に従事することによって持ったことは非常に有意義なことでしょう。農業=自然と共に暮らすというのは、農業という業自体が社会に組み込まれている一つの職業でありますので、=で一致するわけではありませんが、自然という人間には左右できない不確かなものに向き合っていくという点では、他の職業よりは自然に近い生活であることは間違いはないでしょう。自然と共に暮らすというのは、会社勤めのサラリーマンとは異なる考え方による物であります。
会社というものはそもそも資本主義社会の中で、物を作り販売して利益を上げて成り立っている形態ですが、その基本的な概念は「所有」という言葉によるものであり、自らの財・価値を増やしていくことにあります。その資本主義の理念はかつての農村地域が行っていた生活、自分達に与えられた閉じられた土地という空間の中で、そこに与えられる物を活用して生きていくという、という日々とは異なるものです。
私の旅に対する動機ですが、私は別に「やりたいこと」を探しているわけではありません。つまり、「やりたいこと」という自発的・肯定的な行動を求めているわけではありません。私の求めているところは、自分に取って無理のない・私のリズムで暮らすことの出来る生活を求める事です。私の理想の意図するところは、季節の移ろいに身を任せ、草のように光を感じて腕を伸ばし、木のように自分の土地で年輪を重ねて生きていくことなのです。私が自然な状態で暮らしていける所、これが求めるところであります。
そういった考えの中にありながら私は現在会社勤めをしており、なぜか知りませんが都会に移動させられて、さらにあくせく働いているところです。しかし実際の所、ここまでしなければ人は生きていけないのかと感じます。
社会の法則に則って働いて対価を稼ぎ生活する、という所の求めるのは、自分の要求する金銭的な効用を求めるところから来ているはずです。つまり、自分の要求する所が多ければ、それだけ多く働いて稼がなければ満たされることはありませんし、逆に求める事が少なければさほど働かなくても満たされると言うことです。
また、多く働くと言うことはそれなりに労苦と時間を伴う物で、そのことによっても効用が損なわれる場合も多いはずです。ゆったりと過ごす時間の価値が、高度な技術を用いた電化製品よりも貴重な人もいるはずであり、自分の求める価値を見極めて、生活を行うバランスをとるというのが人には重要なのです。
そしてまた、お金を多く得ると言うことは、お金で買える物を欲する場合には有効であるかもしれませんが、そもそもお金とは関わりの薄い価値を求める人間にとっては、逆に持っていることがプラスにならないものでもあり、欲をまねき心を濁らせるものでもあります。例えば昔の芸術家達などは、心の安静を求めるために、金銭的なところをなるべく避けていたのでもあり、江戸時代の本阿弥光悦良寛などにその事例を見ることができます。
そしてまた私のような一般庶民でも、心の平静、ゆっくりと時を過ごす生活、友人と共にある日々などの価値を大切にするものはいるのであり、そういう人にとっては、お金を少しでも多く得るためにあくせくすることはプラスにはなりません。物がちまたに溢れいる中、無くても生活に困らないような製品を、さもそれを持っていることが常識のように押し付けてくる社会の中で、自分にとって重要な物を見極めていくためには、あえて映像やお金から離れていくのも大切であると思います。
そもそもテレビ放送は、スポンサーがものを売るために番組を流しているのですから、そんな物を買わせるための映像が一般的な常識であるなどと捕らえる事には問題があるのであり、ブームや人気などの言葉に惑わされてはいけないのです。生活に必要なお金を得るために費やす時間と、金銭的には価値がないが自分にとって価値のある時間、との間で自分の人生のバランスを見極める必要があるのです。この2つの関係のバランスが自分にとって最もしっくり来る点、この点が自然な生活であると考えています。
人が生きて行くには何が必要なのでしょうか。まずは食べ物でしょう。この食べ物も、以前はおいしい物や珍しい物を食べたいと思った事はありましたが、最近は食べ物に対する興味も減り、生きていくのに支障がなければ良いと思えるようになりました。おそらく生きていく事だけ考えれば、食事の量ももっと減らすことが出来るのではないでしょうか。そしてまた、誰かと一緒に暮らすことを考えているわけでもありませんし、ずっと一人でかまいません。自分の好きな価値、森の木々や花、太陽の光、青い空、雲などが近く感じられる場所であれば、人が一人も通らないような見捨てられた集落とかでもいいです。
住むところも、雨露がしのげ、寒さが防げる程度のあばらやでよく、誰を呼ぶわけではないので飾りもいらず、バンガローの様な建物で十分です。着る物だって同じ物を何日も着ても別に問題もないし、臭いが気になるようになったら洗えばよく、破れたらそのままでもいいし、縫ってもいいし、着られなくなるまで着ればいいのです。
社会では、その中で暮らし・働くために払わなくてはいけないような費用、組織の中で求められている物・価値を身につけたりと、その場に居続けるために支払わなくてはならない費用がある。これらは、自分の効用を上げることとは無関係な費用であり、ひどく無駄な気がする。たとえば見ないのに払わなくてはいけないNHKの受信料の様な物だ。もっとも私はテレビを捨ててしまったので、もはや払ってはいないのだが。
そういった事を、1800年代のアメリカで考えて実行した人がH・D・ソローである。人間と言うより、自分が生きていくために必要な物はどういうものかと言うのを深く考え、町を捨て、人里離れたウォールデンという湖の側に小屋を建て、2年間、草木の風にささやく歌声を聞いたり、森の木々を通じて輝く太陽の光を朝から浴びたり、静かで深い神秘性を見せる湖と向き合いながら、一人畑を耕して暮らした人の話である。その生活は森と湖との歌と詩の生活で、私にはとても自然で美しい様に思える。

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈上〉ウォールデン (岩波文庫)

 
森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)

森の生活〈下〉ウォールデン (岩波文庫)

私は森や湖から遠く離れて暮らしている今、この本を再び読み返し、こういった生活を送ってみたいと強く思うのである。しかし、そういった畑を耕し、魚釣りをして自分の糧を得ていくような生活が甘くないことは、農業をしている祖父を見てもあきらかであり、いくら社会が生み出した価値に興味がないからと言っても、暮らしていくためにはそれ相応なりに準備をしなくてはいけないと思いながら日々を何もせずに(たとえば詩を詠んだり、小説を書いたり)無為に過ごしているのである。そしてソローの本の中では、その様な自分の状態を見透かすかのように、そのような状態についての事についての教訓についても書いてあるのである。
こういう文章を見せつけられると、酷く自分という人間が行動力のない惨めな人間に思えて、やはり旅にでも、もう一度人生を振り返られなくてはならないのではないかと常々思いながら、友人の日記を日々読んでいるところなのである。旅に目的はない。旅をする事こそが目的なのだから。
(まとまりがなくだらだらと書いてしまいました。読みにくく
てすいません。)