序

gravity22005-07-21


東京勤めになってから、私は昼休み日比谷公園を散策しています。私のこの日課は、仙台にいた頃には無かった事です。なぜこのように毎日足が向いてしまうのか、私自身最初はそのことを不思議に思いました。しかし、私は会社の中に、街の中に、人の中に、自分が安らげる場所を見いだす事が出来ませんでした。いや、それは仙台にいる時も同じだったのかもしれません。しかし、この街は明らかに、私がかつて過ごした所とは異なっているように思えました。
ここから山は見えるでしょうか。私の心の中の風景には、いつもその先に山がありました。私の生まれた所は山に囲まれ、冬になれば雪が降りました。草木は枯れ、静まり、自然の流れに身を委ね、時の静寂を受け入れていました。それらの山々はまた、互いに競い合うのではなくて、穏やかに連なり、ただ蕩々と流れています。そして夏になれば青々と、全てが生き物が勢いづくのを教えます。人々もまたその中で、空を見上げるのです。この山に囲まれた土地で、自分という者が、その中の一つであることを知るのです。
私は今こうして、食後のわずかな時間を日比谷公園にて逍遙しています。森というのは、本当の場所だから。街に出ても、同じような物にしか出会わないでしょう。同じような配色の看板、空に馴染まない建物、それらを細石(さざれいし)の様に縛り付けるアスファルト、プラスチック…。それらは幾ら組み合わせても、森の様にならないのです。なぜならばそれは、人だけが形を作り上げたものだから。光や風、そういった物に時を委ねて作られた物ではないからです。私達が生き物である以上、私達の命の時間に合わせて私達の生活の物を造り、そして私達の時間が終わるぐらいには土に帰って行くのが自然なのでしょう。社会という物が人間から離れ、まるで永遠の物の様になってから、人は都市の中心に人が住まない社会の場所を造り始めました。
この街には、光化学スモッグという言葉があります。昔その言葉を聞いた時、私は何か科学の不思議なおかしみと、人の社会の夢を見ていました。しかし、それは違うのです。排気ガスを振りまく道路の脇にあっても、樹木は春に若芽をのばし、秋には色づいて実を揺らすでしょう。しかし、彼らの葉は煤けています。人の社会は、他の物が息づく事を望みません。自分達が、そして自分達の中でさえも、他の人の上に行くことや、人を使うことを事を続けているのです。共にあるのではなくて。
街に樹木があるのは、人の汚した空気を浄化するためではありません。飾りでもありません。本当は皆が分かち合っているのです、この世界で。人も植物も昆虫達も、みな生きているのです。森の土を手の平に盛るだけで、世界の人口よりも多い生物を抱いたことになる事を知っていますか。誰に雇われているわけではありません。誰かが全てを持つことが許されているわけでありません。誰もが自分という一つであり、世界と共にあるだけなのです。
森の中にあり、その下で安らぐのは、自分が一つの生き物として身を任せられるからです。誰かが誰かを踏みつけようとしているのではなく、共にいようとしているから。深く、しっとりと、私達の吸う息に森の時間が染みこみ、私達は豊かに変わっていくでしょう。
それをあなたは退屈と思うでしょうか。そのような森にいることを。あなたが語りかけたりしても、森は声をあげることはないでしょうね。ただ日の光を浴びて、風にそよいでいるだけでしょう。あなたは何を求めますか。鮮やかな色で、豪華に飾り付けられた物を追い求めていくのでしょうか。誰かが必死になってお金を得ようとして、あなたの事を捕らようと罠を這っている中へひたすら進み続けるのでしょうか。同じような物達で重なり合いながら。どれだけ多くの物を持てば、あなたの心は満たされるのでしょうか。どれだけ多くの物を積み重ねれば、社会は満たされるのでしょうか。荷物でいっぱいの部屋には、何も入りません。器は、中がくりぬかれているから有用なのです。心も、中を虚ろにして蕩々と構えることで、自然という大きな物を中に容れることが出来るのです。
この日記は、この社会の理屈とは縁を切った人間が、季節と共に移り変わっていく植物達の様子と、散策の中で見い出した特徴ある生き物達の事を綴った物です。みなさんは私の事を、うらぶれた寂しい人間だと言うかもしれません。その通りです。私は友達も多くありません、片手で数えられる程です。そしてみすぼらしく、街の端の方で、目立つことなく立木の様に働いています。しかし、私はさほど自分が不幸な人間であるとは考えていません。なぜなら、私はこのように草木と共にあることで、大変穏やかな気持ちで、時を過ごしていけるからです。
幸せとは、心が満ち足りている事。私はこの事が、幸せであると考えています。そしてそのようにあるためには、抱えている多くの物を捨てていく事です。それはこの社会において、とても簡単な事。なぜならば、この社会で多くの人は、より多くを持とうしているから、誰よりも多くのお金を、誰よりも多くの肩書きを、誰よりも多くの名声をと。だから、逆に捨てていくことは、争うことなく幸せを得る事が出来る方法です。
私はこの日記で、この都会に残されたささやかな物達の事をお話していくつもりです。草木の変化というのは、一日眺めていただけではなかなかわかりません。彼らは人の様に、日々の出来事に追われているわけではありませんから。地球が丸くても、自分の上にある太陽だけを見つめているのです。私はこの日比谷公園公園を歩いて、草花たちの季節の変化を見つめ、皆が出歩かない雨の日に映る情景、そしてこの日比谷公園の住人である鳩や雀、猫などの事を書き記していきます。そして、私の日記の様な心の人達が増えれば、やがてこの社会は森に帰っていくと思います。そして私は、そのような未来を望む者です。