夏草

お父さん
燐寸《まつち》をおつけしませうね
そして それを一服お喫ひになつたら
また ゆつくり歩き初めませう
いくらか空気も冷えてきました
――お前たち 若い者は
  かうやつて歩いて行くうち
  どんな事を考へるか
お父さん あなたはさうお訊《き》きになつたのですね
お父さん
明るい昼の中でも
私達は夢を持つのです
白い雲が あの誘惑者が
今恰度《ちやうど》
私達の頭の上を過ぎてゆきます
それから
もつと何かお訊《き》き下さい
そんなふうに優しく
そんなふうに静かに
お父さん お父さん

父を喪つてから
私に初めての夏が来ました
草が茂つて
どうかすると
私の婆も隠されてしまひます
私は歩いてゆくのです
かうやつて
あれらの夏の続きを歩いて行くのです
(空気も冷えてきました そしてもう充分夏の外気には
言葉がみちてゐます)
私の視界には 畑と丘の間に
ぽつかりと口をあけて
沼が白くにぶく光つてゐました

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