詩のpickup(好きな詩)

津村信夫さんの詩の中から、好きな詩を10詩選びました。

  • 詩集「愛する神の歌」から
    • 孤児
      (御本を読んでおくれ、お前の声のきこえるうちは私も生きてゐたい。)
    • 林檎の木
      (これはもと歌の木ではないか、鈴なりにすずなりの歌をうたつてゐる。)
  • 詩集「父のゐる庭」から
  • 詩集「或る遍歴から」から
    • 荒地野菊
      (川で溺れた少女のことは もう誰も口にはしなかつた)
    • 冬の夜道
      (冬の夜道を 一人の男が帰つてゆく)
    • はるかなものに
      (白い繭を破つて 生れ出た蛾のやうに 俺には 子供の成長が 実に不思議に思はれる)
    • 風土によせて
      (小粒な葡萄 浅間の葡萄)
    • 雪尺余
      (あの人は死んでゐる あの人は生きてゐる)

    • (もう話はみんなです 山がお気に入りましたか)



孤児



声が非常に美しい娘であつたから、死床の父がささやいた。

――御本を読んでおくれ、お前の声のきこえるうちは私も生きてゐたい。

娘が看護《みとり》の椅子に腰かけて頁《ページ》をきり初めると、父は、いつのまにか寝入つてゐた。

孤《ひと》りになつてからも、あるひは、父の生きてゐた間も、娘は自分の声の美しいことが一番悲しい事実であつた。

上に戻る



林檎の木



眺めゐると、嘗つて智慧《ちえ》の実と呼ばれたものが幾つも実のつてゐる。だが、これはもと歌の木ではないか、鈴なりにすずなりの歌をうたつてゐる。

かつて、十人の娘が樹の下で、口ずさみながら働いてゐた。やがて、冬になる前、その内の一人が前掛けで顔を掩《おほ》つた、いろいろ悲しい事を想ひ出したのだらう。

いぢらしくも、また生物《いきもの》である、林檎《りんご》にも名前が必要だ、かぶりを振る歌の木になんと名付けたものか。

或る夜《よ》、夢のなかで、たつた一つの林檎の実が地に落ちた、さしのぞくと、なかが空虚《うつろ》になつてゐた、私は目がさめてから、黎明《れいめい》の風に灯《あかり》をともして、この悲運を地に埋《うづ》めてやらうと考へた。

上に戻る



静かな少年



 もろこしを呉《く》れないかと訊《たづ》ねると 少年は当惑して「このもろこしは駄目だよ」と云つた
 霜がふるまでかうやつて置く 美しい霜がくれば もろこしも実るのだ さう云つて説明した 農家の小窓から女が首を出してゐた 少年の説明をじつと聴いてゐた 少年の言葉が終ると 安心した風《ふう》にそつと窓をしめた
「山を見るといい」少年はさう云《い》つた 少年は歩き出した 薄《すすき》の穂を手に持つて 石尊《せきそん》と云《い》ふ碧い小さな山がある その背後《うしろ》に火の山が控へてゐる 日の暮れだから 火の山は顔を隠してゐた 時たま あの微妙な色の雲の隙間から ちらりとその片頬を見せたりする その素振りの優雅さが まるで老けた女《ひと》の思ひやりのやうで ふと私の心をついた
 少年の眸《ひとみ》が欲しい そしてあの素直な心の動きをも「山を見るといい」あの冴々《さえざえ》とした声は 今 静かに街道を歩いて行く 馬糞《ばふん》の匂ひが濃くなつて 荷車が私を追ひ越して行つた
 相肖《あいに》たものの心が――美しい さいぜんから 私はそんな物思ひに耽《ふけ》つてゐたのかしら

上に戻る



小児の絵筆の想ひ出に



西の空を指さして 静かな子供が母親に云《い》つた
――僕は あんな空の色が好きだ あんな処《ところ》に行つてみたいと
近郊の空の 遠い雪の残つた山脈の上は 著しく茜《あかね》をさしてゐた その涯《はて》へと 一《ひと》むれの鳥は飛翔し 哀《かな》しく呼応してゐた
母親は急に胸をつかれた想《おも》ひがして 子供の身体をしつかりと抱《だ》きながら あれはお前などの行ける処ではない 遠い処だから お前がほんとに好きだつたら 絵に描いて御覧《ごら》ん お前は絵が上手だから 丹念《たんねん》に色を使つたら きつと心が晴れるだらうと

その夜《よ》も夢の中で この頼りない運命のやうな子供の手足を 母親は幾度もかき抱《いだ》いた

あの日 空間を恣《ほしいまま》にした鳥の群れの 歌の翼のイデヤする涯《はて》は 茜の空の何処にあつたらう

運命は 力なく 鳥の姿に似て 子供は旅立つた 或《あ》るあした
永眠《ねむり》の頬のひとときは かりそめならぬ色をとどめたまま

上に戻る



荒地野菊



川で溺れた少女のことは
もう誰も口にはしなかつた

村の家の障子紙が白い
秋の日に
まるで 偶然のやうに美しい

少年が一人
哨兵《せうへい》のやうに道のべに立つてゐる

その午後から
火の山は退屈さうに煙をはき出した

少年は駈け出した
物影を見て駈け出した

野に光つてゐるもの
ひともと揺れてゐるもの

荒地野菊 荒地野菊

上に戻る



冬の夜道



冬の夜道を
一人の男が帰つてゆく
はげしい仕事をする人だ
その疲れきつた足どりが
そつくり
それを表はしてゐる
月夜であつた
小砂利を踏んで
やがて 一軒の家の前に
立ちどまつた
それから ゆつくり格子戸を開けた
「お帰りなさい」
土間に灯が洩れて
女の人の声がした
すると それに続いて
何処か 部屋の隅から
一つの小さな声が云つた
叉一つ
また一つ別の小さな声が叫んだ
「お帰りなさい」

冬の夜道は 月が出て
随分あかるかつた
それにもまして
ゆきずりの私の心には
明るい一本の蝋燭《らうそく》が燃えていた

上に戻る



はるかなものに



白い繭を破つて
生れ出た蛾のやうに
俺には
子供の成長が
実に不思議に思はれる
美しいもの――
とも考へる

俺は林の中に居を朴《ぼく》した
俺が老いるのは
子供が育つことだ
それにはなんの不思議もない
風が来て
芙蓉の花が揺れる

俺は旅で少女と識した
古いことだ 昔のはなしだ
少女は俺の妻になつた

その妻が
今 柱のそばに立つてゐる
子を抱いて 少し口もとで笑つて

風が吹く
どのあたりから?
旅の空を はるかなものを
俺はもう忘れてしまつたのか

上に戻る



風土によせて



小粒な葡萄《ぶだう》
浅間の葡萄
私は もう
幾年もたべたことがない
初夏の火山の麓を走る
汽車の歩みは
まことにのろい
岩石の間から
白雲の湧くやうな――
そんな壮《さか》んな風景の中で
汽車は ごくんと急に停つた
真昼の静寂《しじま》
緑の木蔭で
杜鵑《ほととぎす》が鳴いてゐた
さうして
浅間の原の日光《ひかり》と風に
私は思ひ出してゐた
もう幾年もたべてみない
あんな小さな一つの自然を

上に戻る



雪尺余



あの人は死んでゐる
あの人は生きてゐる
私は 遠い都会から来た
今宵 哀しい報知《ほうこく》をきいて

駅は 貨物の列は
民家も燈《ひ》も 人の寂しい化粧《よそほひ》も
地にあるものは なべて白い

あの人は死んでゐない
あの人は生きてゐない
だが あの人は眠つてゐる
小さな町の 夜の雪に埋つて
ひとの憩ひの形に似て

雪のくるまへに頬がほてると
信濃の娘が私に告げた……

(神眠り 空あかるく
果樹が重たげに 身をゆすぶる
病む身の窓は 何処であらう)

私は知つてゐる
遙かな紅のいろを知つてゐる
雪の日のあの頬は生きてゐる

在天の知る限りの御名《みな》にかはり
今宵 雪つもる 白く積る

あの人は生きてゐる

上に戻る





     ――戸隠の炉端

主人《あるじ》は最後に お社《やしろ》のうしろで真紅《まつか》な鳥を見た さう云つて話すと一息いれた

――もう話はみんなです 山がお気に入りましたか
――もつと話して下さい 自然のことを
――さてなんだらう 自然と云つて 私達初め まるで立木のやうだで
――ああ さうです あなた方の あなた方のなかにある自然を……

主人《あるじ》は答へず榾火《ほたび》を掻《か》いた
母親の傍で 末の子は眠つてゐた 今のいま乾燥《はしや》いだ子が もう虫声を枕にして

上に戻る