あとがき

 梢にまだいくつか実を残した信濃の柿の木を、私は車窓からよく眺めた。そんな田舎の小都会の、静かな茶卓のほとりの夜も沁々と味はつた。或るときは、千曲の流れが、全く大河のゆつたりとした姿で、私の眼前にあつた。暮れそめてから、流れを渡り、寺の多い町の方にも行つてみた……私の若年の日の幾年かは、そんなふうに、私は多く旅にゐた。
 若い頃の歌の敷々は、今これを手にしてみると、やや面映ゆい気持もする。いくつかの想ひ、そこばくのて体験、ああ、それらが、私の今日の家居の生活にどのやうに続いてゐるものだらうか。
 若年の日の歌に、今日の詩をまじへて、私は一巻の詩集を編んだ。
 北鎌倉の草庵の夜は、更けるにつけ、窓外に虫声がしきりである。私の机の上にも、インキ壺のかたはらに、髭の長い虫が坐つてゐる――遍歴時代、私の遍歴時代、ふとしも私の脳裏をよぎつた言葉である。さうして、それは、たどたどしい私の足跡を思ふ今日の感慨でもある。試みに筆をとつてこの詩集に題した。

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傍点は太字で示した。
ルビは《》で示した。
旧字体の一部を現代表記になおした。
底本:「津村信夫全集」角川書店(昭和49年)
初出:「或る遍歴から」湯川弘文堂(昭和19年)