津村信夫について

  • 津村信夫は明治42年、神戸市葺合区に生まれる。良家の次男として育った信夫は、神戸一中、慶應義塾大学の経済学部と進みサラリーマンとなるが、まもなく辞めて文学の道へと入った。信夫の詩は、信濃の自然の叙情詩と、父や姉との対話の詩が主である。自然と家族を愛した信夫はまた、生涯の師と仰いだ室生犀星や「四季」の面々からも愛された。詩誌「四季」を主な活動の場として詩を次々に発表し、そしてまた叙情日記と呼ばれる散文形式にも活動の場を広げていくが、昭和19年にアディスン氏病により35歳の生涯を閉じた。
  • 信夫は幼年時の文学的な環境に恵まれていたといえるだろう。兄の秀夫はのちに映画評論家として一家を成す程の文学青年でもあり、両親も家庭内で俳句会を催すなど、信夫は文学的な雰囲気の中で育っている。生涯の師となる室生犀星とは、避暑に出かけた長野の軽井沢で、家族が犀星と共に晩餐を過ごした事により見知ることとなる。その後信夫は兄に連れられ犀星を訪ね、それからは一人で頻繁に訪れるようになる。
  • 一方で、裕福な家庭で育った詩人というのはあまり見ないものであり、信夫もその自分のおかれた環境について、「不思議にデリケートな家庭的秩序のなかにあって、私は何を考え、何を志向したのであろうか。〜北村初雄の詩的精神は、全的にそして素直に、この幸福を享受し得たであろうか」と、同じような環境にあって若くして死去した詩人北村初雄の事を借りて反省している。しかしその環境は必ずしも信夫が詩を綴る上でマイナスとして働いていたわけではなく、その事実を深く見つめて詩を綴っていったようである。
  • 信夫と親しくした芥川はその事について、「信夫と知り合つてから十年にもなるが、いつ逢つても笑つていた。〜殊に「いい家」に生れて詩を書く事には、妙な難儀があるものではなからうか。私は津村の笑顔を見ると、いつもそれこそ憂鬱の水底から湧いた寂光みたいなものを感じた。可哀想だと思つた。よくこらへてゐると感心した。私ならば、やけくそを起してしまふのに、津村はおとなしく笑つてゐる。〜私は津村の生きかたを、私の手本にしようと思つた事さへある(太宰治「郷愁」)と評している。
  • そのように評される所を持った信夫は、立原道造や朔太郎の様に人の理想や精神の極みを詩に表していったのではなかった。あくまでも具象的に、おだやかな風景の中で、いや、彼が見つめる事による穏やかな満たされた風景の中で、ただ流されるのではなく、芥川が評するような犯しがたい自らの憂鬱な深淵をもつ泉の元で詩を詠み上げて行ったのではなかろうか。
  • そしてそのような信夫を四季の仲間達は愛した。信夫と同じように「四季」の事務を担当していた神保光太郎は、「信夫はよく、友人たちのくせを巧みにとらえて、その仕草や話し方などをまねて、私たちを関心もさせ、笑わせもした。犀星や朔太郎(萩原)や達治(三好)や私などが彼の演技の材料にしばしば使われていたようである。」と言っており、彼はふっくらとしたその体型からも滲み出てくる様に穏やかで、そして人の微笑を誘う様な人間であったようである。
  • 特に師である犀星は信夫を愛し、「よい家庭にそだつたノブスケは神戸の父母から隔れてゐたから、十日めくらゐに大森の私の家に通うてゐたのだ〜殆ど、信夫のなまの原稿を読んだことがなく、いつもむだ話ばかりしてゐた。〜二十も違う年下の友達の前で平然として女性論なども交へてゐて、何が師弟だか判つたものではない(室生犀星「我が愛する詩人の伝記)」として信夫をノブスケとして呼んで付き合い、また、丸山薫との関係を、「丸山薫と親交のあつた信夫は、私の影響をうけるにはもつと新人だつたから、いつの間にか丸山薫の緊密なものを取り容れてゐることを、〜他を誘うことに迅い信夫の詩が、私の眼に彼が丸山の詩に惹かれてゐることを知つた。〜文学にある友情ほどいみじく嬉しいものはないし、それが作品のうへに見られることでは、いかなる人間の至情よりも純粋で且つおごそかでさえあつた」として温かく見守っていた。
  • そしてそれはまた家族においても同様であった。信夫の詩は他の四季の詩人と異なり、父や姉といった家族の事について詠んだ詩が多い。信夫の詩は、遠い理想を目指して詠うのではなく、自分の身近な日々の生活を叙情精神のもとに詠うものであった。それゆえに父との関係においても、家族の長として、或いは法学者、実業家としても偉大であったはずである父との葛藤や、乗り越えると言った事ではなく、父の思い出を偲び、そして自分が年をとり、妻を得て一人の子供の父となっていく中で、父との思い出を語っているのである。同じく姉の死に対しても、姉の死を深く嘆き悲しむことではなく、姉が生きていた時追憶を、日々の生活を通して向き合い詩に詠み上げている。
  • そしてその父や姉についての詩よりも遥かに多いのが、自然の風景の叙情詩である。信夫が生まれたのは神戸である、そして暮らしていたのは東京である。しかし信夫の詩に読み込まれている風景の大部分は、信州の山深い山村の風景であり、たわわに実った果樹園の下の少女達であり、それらを見つめる雲と暖かな日ざしである。「もっと話して下さい 自然のことを(詩「炉」)」と信夫は信州の人に訴えかける。こんなにも率直に信夫は自然を求める。自然とは何だ、人間と自然との関係とはいかなる物か、如何にしてこの信州の厳しい自然環境の中で人と自然という物が折り合いをつけているのか、と言ったような概念的な問題はこの求めの中に一切ない。信夫は長野で、軽井沢で、戸隠でのおだやかな自然を、自らの中に取り込み、自らもその風景のなかの一つの自然というものである事を求めたのではなかろうか。「さてなんだらう 自然と云って 私たち初め まるで立木のやうだで ああ さうです あなた方の あなた方のなかにある自然を(詩「炉」)」と。
  • そしてその求めは、早急に花や実を啄み、或いはトーテム動物を自らの中に取り込んで行くような様ではなく、あくまでも自然の流れるままにゆったりと、津村信夫というおおらかな器に取り入れて行ったのである。その様を神保光太郎は「彼の正のあゆみはあくまでもゆったりとしていた。〜無意識的とはいえ、自分の素質の限界をはずさず、一枚から一枚へと、そのカンバスに彼独自の風景画を仕上げて行った。〜このようなタイプの詩人が、成熟に成熟をつづけ、輝かしい老年に到達して、はじめて、彼がこれまで歌うことのなかった頂点の風景を詩につづける時、それこそ、壮大華麗なものではないかと想像した。」と語っている。
  • 現に信夫はその求める自然を持ち合わせる信州の女性と、家族の反対を押し切って結婚しているのであり、そして信州を度々訪れ詩や叙情日記に書き、そしてそこで暮らそうとも考えていたようである。彼の詩集を読んでいると、信州で生まれた人ではないという事は詩の中から読みとれるが、この人物が東京に住んでいたとはとても想像しがたい。それほどまでに信州での詩が殆どで、まれに友人との関係で都会での詩が出る事があるのみなのだ。しかし信夫は残念ながら信州に移り住むことはなく、病院の床で「そのうち退院して信州にでも行こうと思ふ。」と語り、その5ヶ月後に自宅の鎌倉で亡くなった。
  • 信夫が老年となり描き出しうるはずであった「壮大華麗」な風景とは如何なる物なのだろうか。信夫は冬の信州を感じたのであろうか。私は信州に行ったことがない、しかしそこは山に囲まれた地であり、おそらく長い雪が降り積もるだろう。それは訪れる者にとって「壮大華麗」な物と映るかもしれないが、そこに暮らす者にとっては長い静寂な物である。それは信夫の問いに対して信州の人が答えた、「立木のやうだ」という事ではないだろうか。もし信夫が望んでいた信州で暮らしたのであれば、そこで自然という物を深く長い時間を持って取り込んだのであれば、雪国での冬に木々のように、驚くほど質素で精錬された、詩というよりも立木の様な言葉になるのではないかと私には思われる。
  • 改めて今の私たちが彼の詩を読んで想像するのは、かつての詩人達がいかに多くの自然に囲まれていたかと言うことであり、それにも関わらず都会育ちの信夫は信州の自然を本当に求めていたのだという事実である。彼らの詩の中には、自然として草花、空と太陽がありありと表されている。今の詩の雑誌野中にはかつての詩人が詠み上げた自然は失われている。人は変わってしまったのだ。自然は環境という名前になってしまったのだろうか。私は四季の詩人の詩を多く詠んでいながらまだ長野を訪れたことがない。かつての詩人達が愛し、信夫が描き出そうとした自然が信州にまだ残っていることを望む。