津村信夫の詩と私について

gravity22005-08-16


先月から今月にかけて、詩人津村信夫の詩集・年譜の入力及び紹介文を書いていた。そしてそれらが昨日一通り終わった。私が津村信夫について知ったのは、萩原朔太郎立原道造について読んでいる時で、年表や解説の中に四季の一員として名前が登場していたからだ。そして白鳳社版の津村信夫詩集を購入して読んだ。だが残念ながらその当時、私自身が詩という物を継続的に書いてはいなかったために信夫の詩の魅力に気付かず、いくつかの詩に対して付箋を貼り付けたのみであまり深い興味を示さなかった。
それは信夫の詩が、朔太郎や中也の様な直接的に訴えてくる詩の劇的なリズムや世界観を持つという詩ではなく、一方で当時の私は詩にそう言う物を求めていたからかも知れない。信夫の詩は、彼らの詩とは対極的に異なり、一つの詩で観念的な理想を詠う完成型の詩ではなくて、信州の山村で過ごした夏から秋にかけての牧歌的な日々を、オルゴールが奏でるようなおだやかなメロディーとして詠ったものである。そしてその一連の詩は室生犀星が述べるように、「人を引きつけることに迅い」詩なのである。
だが、私がその様な信夫の詩の魅力に気付くようになったのは最近である。日々の生活の中で詩という物に触れる時間が長くなり、何か特別な心の変化があった時に詩という方式を使いそれを記録に残すと言うことではなく、自分という人間がいわば詩的な心の生活を営み、その結果としてその中のいくつかが形を持った詩として表れてくる様な自然な人間に変わってきたからかもしれない。そしてそれは最近になって、一部の友人に対して詩を書いているという事実を打ち明ける様になった事にも通じる。
しかし、私が信夫の豊かな詩を受け入れるような心境は、おそらくかつて持っていたものなのだろう。そしてそれはまた無理のない、私の自然体であるように思う。私は少年時代からかなり多忙な毎日を望んで送っていた。そんな姿を見て私の親が昔の思い出を話したことがある。私の幼年時、と言っても幼稚園児よりも小さい時の話だ。
幼年時の私は、東京の田無市(現西東京市)に住んでいた。家の近くに小さな公園があって、晴れた日の午後にはいつもそこにいたそうだ。しかし私はその公園で何か元気に遊んでいたわけではない。私は公園のベンチに座って、いつも日向ぼっこをしていたのだ。よくその公園のベンチにはおじいさんが座っていて、そんなおじいさんの脇にひよっこり座っていたそうだ。時々同じぐらいの年の子と砂場で遊んでいるときも、私はずっと独りで、空いたプリンの容器に砂を詰めて形にして砂場の木の縁に砂のプリンを作り続けていたそうだ。そして他の子が砂のプリンを足で壊していっても、私は別に怒るわけでもなく、他の場所に砂のプリンを作り続けていたそうである。
そんな私は近所のお母さん達から、○○はきっと将来、役場の戸籍係になるんじゃないのかな、などと言われていたらしい。当時の役場の戸籍係は、ひなたぼっこをするような子供がなる職業だったのかも知れない。そしてその予想は残念ながら外れているようで、現在実現されててはない。私はそのような素質を、子供の時に既に持ち合わせていたのだ。それなのにどこかで失ってしまっていたようだ。
そして今私は信夫の詩の魅力を感じることが出来る人間であり、改めて一連の詩をすべて読んでみた。すると彼の求める心境は今の私が求める心境に近いのではないか感じる。その理由としては、神保光太郎が語るような信夫の詩の綴り方が今の私が求める仕方に非常に似ているからであり、またそこから紡ぎ出される不思議なおだやかさ、自然に満たされた状態を詠むその心も同じであると感じるからである。
信夫は神戸の生まれ、そして東京で暮らした。なのに信夫の詠む詩の多くは信州の山村においての詩であり、神戸、或いは東京での詩と思われる詩は家族或いは友人との対話の詩であって、山村での詩に心の満たされ状態が詠われるのに対して、何故か家族との対話についての詩については少し陰りを見せた詩が多い。彼はやはり、この都会の中で暮らすことに性質として合わない人間だったのではなかろうか。果たして本当の所、同年代の人間に心を通じ合わせる者を持てたのかどうか、私は彼にそういった印象を感じざるを得ない。たとえ彼を理解する暖かな人物がいたのだとしてもだ。
絶えず人前で戯けて見せるその姿とは対象に、信夫が持ち続けていると芥川が評した誰も犯しえない憂鬱な心の深淵を満たすのは、信州のおだやかな自然だったのであり、それを信夫は「もっと話して下さい 自然のことを」と、おそらく動的にではなくて、堅く言葉を組み合わせて深淵から語りかけるのであり、そして自然という大きな物を作為的では無い形で持ち合わせた信濃おとめに、彼の理想を求めたのではなかろうか。
私もまた都会で育てられた者として、今の私が深く自然という物を求めているのを感じる。これはおそらく田舎で育った物には分からないものなのかも知れない。田舎で育ったものは既に自分の中に自然を宿しているのであり、その自然はあえて想像しようとしなくて自らの身体の中に透き通っているものなのである。そう言った物を持たず、また都会的な大いなる約束を理想と感じない私は、自然の総体であるような山を歩くのであり、荒川の河原で独り黄昏れるのである。私はまだ大きな自然をもっていない。例えば私が決断をするとき、或いは人生の危機に直面するとき、私の背後に広がるべき茫々たる自然を依然として持ち合わせていないのである。
この一人の詩人の詩と詩の綴り方に出会ったことは貴重な体験であった。私が今までの出会った詩人のなかで、一番自分の性質に近いと感じる詩人である。そしてそれは無理のない、自然な状態で詩を綴ること、友人が或いは周りの世界がどんなに早く回り出したとしても、自分がそれにより焦燥に囚われることなく、小高い山を一呼吸一歩ずつ進んでいけばよいと考える、一己の人間として生きることである。たとえ、私が四畳半の貧しい部屋に住んでいて、信夫が裕福な恵まれた環境で育っていたとしても、物質的な所は心の本質にあらず、わかりあえるものであると感ずる。そういった社会的な囚われた心を解き放った後には、かなり同じ心境にいたるのではないだろうか。
信夫が最終的に至であろうと思われる詩。神保光太郎は「壮大華麗」と語ったが、果たしてどうなのだろうか。あくまで今の私が考えることだが、最終的に行き着くところは荘厳さや華麗さとは無縁な所だと思う。自然とは、自然体のこと。無駄な所を省かれて精錬されたもの達、それらの集合体の組み合わせがもっとも調和の取れる所、無理のない状態である。そしてそれは気候条件が厳しい所など極限的な状況ではっきりと見られる。そしてそれが何故か人の目には非常に美しく映る。一方で、人工的ないっさいの無駄を省いた物はどうだろうか。いや、本当にいっさい無駄を省いた物は美しいのかも知れない。それは機能美という方向だろう。今の社会で見られる無駄の省き方は、単に人間の無駄を極力省いたものであって、道具としての無駄が省かれていることとは異なる。人が利用する道具を作るのに、人を省いては美しい物は出来ないであろう。
信州も雪が降る。雪と植物の関係なども実に微妙な物ではないのか。豪雪地帯での人間の営み方も、かつては無理のない調和のある物だったと考える。畑に肥料を巻くときなどは、豪雪地帯では雪の上に撒くと聞いたことがある。溶けてから撒いたのでは撒きにくく、分布に群が出る。自然の力を利用して調和よく栄養を入れるのだ。自然と人間との関係もどちらがどちらを犯すというわけ。最後に至るであろうと思われる詩、あくまで私が考える所であるが、それは信夫の「もっと話して下さい 自然のことを」という問いに答えた者が返した「立木のやうだ」であると私は考える。
私はこの夏取れるであろう遅い夏期休暇を、まだ訪れた事がない信州で送ってみたいと思う。本当に豊かな旅の一つは、このようなかつての詩人の見た、いや叙情した心の風景を訪ね、彼らとの対話を行うことであろう。そのためには彼らの事を知っていた方がより充実した旅になるのであろうし、そこに私自身の経験を積む事が出来る。
このように心を通わせる旅をする人が増えれば、信州は日本でもっとも賑わいを見せる場所になり、また住んでみたいと考える人が増えると思う。だが現代の人は、「ある」ことよりも「所有する」ことに心を囚われる人の方が多く、視覚や聴覚を強制的に向かわせるような所に出かける傾向がある。なぜならその方が楽だからだ。自分は何にもしなくても既に固定された形を受け入れるだけでそれを得たように感じ、より豊かになったと感じされられるからである。それを積み上げた物が、誰も住むことのないこのオフィス街だろう。
形無き心の旅は客観的な尺度を持たないゆえに、所有という概念とは関係が薄い。多くの富を得多くの物を所有する者は、かつての詩人・俳人達が求めた「ある」状態が何のことかは分からないだろう。しかしかつての日本にはそういう人生を送った名もない文士達が数多くいたように思うし、歌人俳人もまたそのような過去との旅を続けていたのである。そして私もまたそういう人間でありたいと望む。今の信州が、かつての太陽を自然のままに残していることを望む。