立原道造から堀辰雄への手紙

gravity22005-11-20


この日の日記は前回の堀辰雄文学記念館の日記の続きですが、テーマが変わるので別立てで書いています。
堀辰雄は小説家ですが詩の雑誌「四季」の生みの親であり、もともとこの雑誌は文芸誌「四季」として始まった物でした。しかしその形態のままで発行を続けていく事が難しくなり、詩人の三好達治等に協力を持ちかけたところ、新たに詩の雑誌「四季」として創刊していくことになったものです。新しい四季には堀辰雄の師である室生犀星を始め、萩原朔太郎三好達治丸山薫津村信夫らが同人として加わり、そしてこの雑誌から世に出ることになった立原道造がいました。堀辰雄立原道造は文学においての兄弟関係を持ち、大変親しくしていたようです。
堀辰雄文学記念館の展示の一つに、この立原道造から堀辰雄宛てに送られた葉書が展示されていました。こういった身近な物は、彼らの人柄を知ることが出来る大切な物だと思いますので、その文を写してきた物を載せようと思います。

昭和13年11月1日 立原道造から堀辰雄への葉書

 逗子ではその後いかがおくらしですか
 御仕事の方はお捗取りですか……
 いつか伺はうとおもひながらをりを待たずにおります。<<風立ちぬ>>を先月も書いたのですが四季原稿あつまりすぎてのせるのをやめて手もとにおいておいたら自信念失せ 十二月ごうで<<風たちぬ>>をつづけない文章を書いてもうおしまひにしようと思ってゐます はじめはうさぎのやうにいきほひがよかつたけれども いはますつかりだめになつてしまひました
 おからだを大切に
                    道造

今の私達は葉書など希にしか出さなくなってしまいましたが、こういった形として残るものが送られてくると、その中に気持ちが宿っているような気がして相手の事を思うようになるものかもしれません。「うさぎのように」という豊かな表現を手紙という身近なものに書き出せるという所はさすがです。逆に堀辰雄から立原道造への手紙も見たいところですが、その時の展示にはありませんでした。
この文の中で<<風立ちぬ>>という言葉が出てきていますが、これは堀辰雄の小説の<<風立ちぬ>>との関連性はないようです。立原からの葉書を見て、堀辰雄の<<風立ちぬ>>という作品に何か立原の構想が含まれているのではないかと思い、文学館の感想・意見の所で訪ねてみたのですが、学芸員の方から別々のものだとの回答を頂きました。あまり回答を期待してはいなかったので、直ぐ答えをいただいて大変申し訳ないところです。
私は理系の人間なのでこういった事をした事がありませんでしたが、何か学生時代を思い出すようで懐かしくなりました。文系の方はレポートなどでこういった事を調べるのでしょうか。もっとも、簡単に聞いてしまったのではだめですけどね、文献を調べなくては。
頂いた回答ですが、堀辰雄の「風立ちぬ」は昭和8年〜12年に自身の婚約者との出会いと別れという経験をもとに小説として構想し書き上げた作品ということでした。メールが来る前に家で年表等を調べてどうも見当違いの質問をしているとわかったので申し訳なかったのですが、上の葉書と風立ちぬ執筆の時期がずれていますので別の物であると確認できます。申し訳ないことをしたので、多少なりとも気持ちのこもった感謝の気持ちを添えてメールを返させて頂きました。

私は堀辰雄文学記念館に寄った後、文学の散歩道を歩き追分の自然の中を歩きましたが、高原の樹木はどこかさわやかで優しい感じがしました。秋ということで少し葉を落とした白樺などは、大きなぺんぺん草のように風に揺れて、草のような軽やかな音が聞こえてくる様です。辛夷のごつごつした実やイチイの小さな赤い実なども、なかなか東京では見ることが出来ません。
記念館でいただいた「雪の上の足跡」のコピーを読んで、また軽井沢に、それも冬に、立原さんの詩にあるような雪の高原を訪れてみたいと思います。
お忙しいところご返事いただきありがとうございました。