野付牛にて

gravity22005-09-16


野付牛にきています。野付牛とは、アイヌ語の野の端または野の果ての意味のことで、現在の北見市にあたります。台風が近くにいる中でのフライトは、機体が上下左右に揺れて気持ち悪かったのですが、一夜明けてみると台風は去り、北海道の空には青空が広がっていました。前日空港を降りた時には長袖シャツでも寒かったのに、今日はTシャツでも暑いぐらいです。そしてその暑さはからっとしていて、沖縄のように心地いいものです。
北見市の市街地は整っていて、上下左右に整えられた街並みが続いています。北海道の人によると、札幌も旭川もそのように碁盤の目のように整えられているそうです。そしてこういった場所に来ても、私の目は街路樹に向いてしまうのですが、その樹種は東京でも仙台でも見かけない種類であって、何の木かわかりません。樹皮はコナラの様に灰色で縦に亀裂が入り、葉は重鋸歯でした。(自宅に帰ってから調べると、それはハルニレの様です。アキニレは日比谷公園にありますが、ハルニレはありません。ハルニレの方が葉が一回り大きいようです。)
仙台から東京に来た時も、大きなクスノキの木の姿に驚きましたが、ここ北海道は仙台とも東京都も異なった種類の木々が生い茂っているようです。その他にも、おそらく種類の異なる松が街中の公園などに植わっていました。これではわからない木々ばかりは、何も伝えることが出来ませんね。街中ではありませんが、少し離れて森が広がっている辺りなどにくると、白樺が群生しているのを見ることが出来ました。トランプのスペードに近い形の葉の、樹皮が白い木です。白樺と言えば長野の高原などが有名ですが、ここ北海道は寒いこともあって高原でなくとも普通に自生しているようです。
金曜日に仕事を終えて、これから観光で網走に出かけるのですが、列車に乗るまでにはかなりの時間がありました。東北でも状況は同じなのですが、列車の本数はかなり少ないようです。また、網走とは逆の方に向かう列車が走っていましたが、帯広に行くこの列車は今度廃線になるそうです。私のような車の運転の出来ない人間には、残念な限りです。でも、私はそのうち社会にいられら無くなって、幾らでも時間が持てるようになるでしょうから、廃線になった線路の上を、枕木の数を数えて歩いていけばいいと思います。
さて、余った時間を利用して、市内のハッカ記念館という所に出かけました。ハッカ記念館の「ハッカ」は、もちろん皆さんご存じの「スー」っとするハッカです。昭和の初めごろここ北見は、全世界のハッカの7割を生産するほどのハッカ王国だったそうです。さて、ハッカはどうやって作られるのでしょうか。現在は工業的に作られているそうですが、当時は農作物として作られていました。
記念館の中にハッカの元となる草が植えられています。私はその近くに行って匂いを嗅いでみましたが、特にハッカの匂いがするというわけではありません。この季節では、花も実も成っていません。花から取れるのでしょうか?実から取れるのでしょうか?。実は葉からとれるのです。記念館の人にその葉の一枚を頂いて、葉の裏を擦って指の匂いを嗅ぐと、とても強いハッカの匂いがしました。
花が咲いている時期が葉にハッカ成分が一番強く出る時期で、その時期にハッカの草を収穫します。そしてこれに水分を加えて湧かして蒸発させ、それを冷やして蒸留すると、水と油が取り出されます。この取り出された油がハッカ油という成分なのです。
当時なぜ北見がそれほどハッカ王国になったのか。それにはいくつかの要因が有るようです。札幌・旭川・北見など、北海道の地は開拓地であり、明治の初めに本土から屯田兵などで人がたくさん移り住んで作られた街です。その新しく開拓されていった土地では、何を栽培するのに適しているのかを探していました。また、北見・網走といった土地は、北海道の中でも北の方に入りますが、日照条件が非常に良く、全国でも有数の日照条件の土地であった。そして当時、ハッカは農作物を通じてしか作られておらず、イギリスなどへの輸出などで高値で取引されていた、等の理由によりハッカの栽培が北見で広がり、ハッカ王国を築いたようです。結果としてハッカは、戦後工業的に作られるようになり廃れていったようですが、そういった資本を下に、現在の工業都市につながる発展をしていったのでしょう。
話は違いますが、砂糖は何から作られているか知っていますか?。私はてっきりサトウキビのみから作られると思っていたのですが、ビートという作物からも作られているそうです。ほうれん草の仲間で、カブのように根が肥大し、そこに糖分が蓄えられます。ここ北海道は、そのビートの生産地です。東北の畑では見たことありませんでした。

 (2005.09.08)