オホーツク海に向かいて(2)

砂浜にも花が咲いていました。大風の日には波がやってくるであろう様な、そんなところにも花は咲いているのです。砂の上に黄色の花を咲かせている植物、名前はわかりません。花としてはタンポポに少し似ています。顔を出しているのは花だけなのです。私はその周りの砂を探ってみました。すると砂の中から濃い緑色の葉が現れました。砂を探ってしまうと根ごと浮いてしまうのではないかとも思われましたが、それは厳しい環境に咲く花とあって、かなり深く根ざしているようでした。葉は砂に埋まってしまっていたために、その縁が黄色く変色していました。他には、菊のような葉をした植物や高山でよく見かけるハイマツの様な木もありました。
空は晴れていました。山の上の空が本当に青いとすると、海の上の空は本当に広いのです。私の街のように、自分達から空を縮めようとはしていません。空が蒼いことを望み、空を尊んでいました。その中を、まだらな雲が散らばって形を作っています。それは大きな鯨のようです。頭の方が大きく、胴の辺りがくびれて、しっぽの辺りがまだらに細長く続いていました。そしてその鯨のお腹の下に、小さな二頭の鯨の雲がありました。彼らは地平線の方へと向かっているようでした。
私はこういう風に有りたいと思います。この風景は一年たっても変わらないでしょう。また同じように繰り返しているでしょう。街は一日ですら変わっていきます。昨日あったものが消え、明日に新しい物が出来るような社会です。昨日いた人が去り、今日の人が座る。街の中にあって書き記せない物が、海の傍にあって書き記せるようになる。ここのところ私は詩を書き記すことが出来ないと考えていました。
詩とは叙情です。心が生じねば詩は生まれてきません。街は心のエネルギーを吸っていきます。街の作られた人工物は、本来あったところ、本来繋がっていたところから切り離されたために、エネルギーを求めて人の心を吸っていくのです。一年、一日を時間という物で区切り、その一つ一つの器に全てを満たすように予定を入れていく、絶えず動いていないと満たされないような気がする。こういう風に産業の機械になってしまってはだめです。海のように繰り返す景色を見つめ、自分がそのなかの一つとして生きていく感覚が、風景の中の叙情を生み出させると思うのです。この荒涼とした風景の中に自らの身を委ねることによって、その風土にあるものとの会話が成り立ち、詩を語ることが出来るのです。

 (2005.09.09)