小諸にて〜若山牧水の歌

小諸城天守閣跡


さて、話は同じ懐古園でのことですが、園内の石碑に、下記のような若山牧水の歌が刻まれていました。



かたはらに 秋くさの
花かたるらく ほろびしものは
なつかしきかな

私は短歌を多く知らないので、その道の善し悪しはわかりませんが、この歌はとても趣ある歌だ思います。この歌の最後の「ほろびしものは 懐かしきかな」という言葉。この言葉は、平家物語の「祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者衰の理をあらわす」や、方丈記の「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず よどみに浮かぶうたかたは かつ消えかつ結びて 久しくとどまりたるためしなし」などに通じる物があり、日本人が古来、精神として持っていた、人は自然の中の一部であり、その大きな流れに従って生きていく、生まれたものはやがては死んでいくという、自然の中に人があった時代の心が感じられます。「なつかしきかな」という言葉には、深く静寂な自然に自ら帰って行く物に対する親しみが含まれているので、詠みても自然に身を委ねて生きている者であることが、その言葉の組み合わせから感じられてきます。
残念ながら、近年の社会は全てをシステム化していく方向に働いており、製品を作る行程をマニュアル化することより作られた製品を保証するといったことのみならず、会社という組織の中で働いている人間のありかたまでもシステムとして規定し求めて行くという軍隊のような事が見うけられます。法律も規則も礼儀作法もそうですが、そういったものは自ら衰えていく物ではありません。人が作った物でありながら、木の家のように朽ちていく物ではなく、システム自ら死を含んでいるわけではないので死なない物です。ですから人は、その中で息苦しさを感じるのです。
社会のシステムは自然の理とは違い、どこかで生み出された物でありながら、永遠とそのシステムを改善し人間が何処までも発達していく事を求めており、それは万物の流れに逆らっています。システムも又人がそれによって動かされているのであれば、自ら衰えていくようにしていかなければならないでしょうか。
社会システムで不思議なところは、絶えず成長しなければ成り立たないということです。それは景気が悪くなってくる時によく知ることが出来、絶えず景気対策を行って無理矢理経済を成長に持って行こうとする姿です。生命であるならば、如何なる物も循環しているのであり、調子が悪い時があれば、調子の良い時もあります、それは生命としてどちらが正しいという物ではなく、どちらの側面も自らを知る上では必要なことです。若く成長していく物のみが、何かを持っているというわけではなく、衰えていく中からも人間は得ていく事はあります。
景気が悪くなった時は、地球から我々が資源を搾取しすぎたことや、生き物が暮らしている環境を荒らしてしまった事、奢る者の下で犠牲となった人達、誰もがお金持ちになることを目指す社会、お金をたくさん消費する事が幸せになることだと勘違いするような社会、これらをゆっくりと反省していけばいいのです。衰えていくことを否定する人達は、いつまでも現実から目を背けているだけです。
「ほろびしものは なつかしきかな」、人は自然の流れに身を委ねることで、盛者必衰の理を知ることが出来ると思います。この詩は、そういう精神を身につけていなければ、味わうことが出来ないでしょう。
人は、テレビなどの商品を売るためにCMを流し続けている物から一歩身を引くことで、自らが足ることを知り、人生を豊かに過ごせるようになっていくはずです。。競争社会の中で育てられ、人より上を目指していくことが幸せになる事だと教えられ、その視野でしか社会を感じることの出来ない者は、いつまでも自然と和らぐことなく、突如その身が滅びることになるでしょう。
「ほろびしものは なつかしきかな」この日本の精神は大切な物です。