悪夢

少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を伝へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、旧知相見るの最後にてありき。かれ学あり、才あり、西の国の言葉にも通じ、宗教の旨をも味はひ知り、おほかたの芸能にもつたなからず、人にも侮られまじき程の品かたちは持てりしに、其半生を思ひやれば実に慘苦と落魄との連鎖とも言ふべかりき。かれは春の日の長閑に暖かなる家庭に生ひたちて、希望と幸福とを一身に荷ひたりしかど、やがて獄窓に呻吟せしの日は人生流離の極みを尽したる後なりき。あはれむべし、死と狂と罪とを除きて他にかれの行くべき道とてはあらざりしなり。われは今、かれが悪夢を憐むの余り、一篇の蕪辞囚人の愁ひをとりて、みだりに花鳥の韻事を穢す、罪の受くべきはもとよりわが期する所なり。

其《その》耳はいづこにありや
其胸はいづこにありや
激《たぎ》り落つ愁《うれひ》の思《おもひ》
この心誰《たれ》に告ぐべき

秋蠅《あきばへ》の窓に残りて
日の影に飛びかふごとく
あぢきなき牢獄《ひとや》のなかに
伏して寢《い》ねまたも目さめぬ

夜《よ》な夜なの衾《ふすま》は濡れて
吾《わが》床《とこ》は乾く間も無し
黒髮は霜に衰《おとろ》へ
若き身は歎《なげ》きに老《お》いぬ

春やなき無間の谷間
潮やなき紅蓮《ぐれん》の岸辺《きしべ》
憔悴《うらがれ》の死灰《しくわい》の身には
熱き火の燃ゆる罪のみ

銀《しろかね》の台《うてな》も砕け
恋の矢も朽《く》ちて行く世に
いつまでか骨に刻みて
時しらず活《い》くる罪かも

空の鷲《わし》われに来よとや
なにかせむ自在《じざい》なき身は
天の馬われに来よとや
なにかせむ鉄鎖《くさり》ある身は

いかづちの火を吹くごとく
この痛み胸に踊れり
なかなかに罪《つみ》の住家《すみか》は
濃き陰《かげ》の暗《やみ》にこそあれ

いとほしむ人なき我《われ》ぞ
隱れむにものなき我ぞ
血に泣きて声は呑《の》むとも
寂寞《さびしさ》の裾《すそ》こそよけれ

世を知らぬをさなき昔《むかし》
香《か》ににほふ妹《いも》を抱きて
すゝりなく恨《うら》みの日より
吾《わが》虫は驕《たかぶ》るばかり

わがいのち戲《たはれ》の台《うてな》
その悪を舞《ま》ふにやあらむ
わがこゝろ悲しき鏡
その夢を見るにやあらむ

人の世に羽《は》を撃つ風雨《あらし》
天地《あめつち》に身《み》は捨小舟《すてをぶね》
今更に我をうみてし
亡き母も恨《うら》めしきかな

父いかに旧《ふる》の山河《やまがは》
妻いかに遠《とほ》の村里《むらさと》
この道を忘れたまふや
この空を忘れたまふや

いかなれば歎《なげ》きをすらむ
その父はわれを捨つるに
いかなれば忍びつ居らむ
その妻はわれを捨つるに

くろがねの窓に縋《すが》りて
故郷《ふるさと》の空を望めば
浮雲や遠く懸《かゝ》りて
履《ふ》みなれし丘にさながら

さびしさの訪《と》ひくる外《ほか》に
おとなひも絶《た》えてなかりし
吾《わが》窓に鳴く音を聴けば
人知れず涙し流る

鵯《ひよどり》よ翅《つばさ》を振りて
黄葉《もみぢば》の陰《かげ》に歌ふか
幽囚《とらはれ》の笞《しもと》の責《せめ》や
人の身は鳥にもしかじ

あゝ一葉《ひとは》枝に離れて
いづくにか漂《たゞよ》ふやらむ
照《て》れる日の光はあれど
わがたましひは暗くさまよふ

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