島崎藤村

自序

若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四巻 をまとめて合本の詩集をつくりし時に 遂《つい》に、新しき詩歌《しいか》の時は来りぬ。 そはうつくしき曙《あけぼの》のごとくなりき。あるものは古《いにしへ》の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ば…

藤村詩集 (序文のみ)

夏草の後にしるす

保福寺峠鳥居峠を越えて木曾に入りしはこの夏七月の中旬なりき。福島の高瀬氏はわが姉の稼ぎたるところにて、家は木曾川のほとりなる小丘に倚りて立てり。門を出でゝ見れば大江滔々として流る。われこの家にありて、峨々たる高山の壮観に接し、淙々たる谿谷…

農夫

凡そ万物に本来あり、改作耕稼もまた結要あるべし。農民は朝に霧を払い出て、夕に星を載て帰る。遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇を枕にするといへども、楽も亦其中にあり。人は体を隠に置て気を詰ること老病する本歟。依之、山人は体を詰め気は泰に…

婚姻の祝いの歌

其一 花よめを迎ふるのうた 君まつ宵《よひ》のともしびは いとゞ火影《ほかげ》も花やかに 鶴なきわたる蓬莱の 千世《ちよ》のみどりを照すかな 祝の酒は香《か》にあふれ 錫《すゞ》の堤子《ひさげ》をひたしけり いざや門辺《かどべ》にたちいでゝ 君の来…

落梅

風かぐはしく吹く日より 夏の緑のまさるまで 梢のかたに葉がくれて 人にしられぬ梅ひとつ 梢は高し手をのべて えこそ触れめやたゞひとり わがものがほに朝夕《あさゆふ》を ながめて暮《くら》してすごすとき やがて鳴く鳥おもしろく 黄金《こがね》の色にそ…

天の河二首

其一 七月六日の夕 あすは思へばひとゝせに 一夜《ひとよ》の秋の夕《ゆふべ》なり うき世にしげるこひ草《ぐさ》を みそらの星もつまむとや 北斗は色をあらためて よろづの光なまめきぬ あふげば清し白銀《しろがね》の 夕波《ゆふなみ》高き天の河 深き泉…

二つの泉

自然の母の乳房《ちぶさ》より そこに流るゝ泉あり たとへば花の処女《をとめご》の やがて優しき母となり その嬰児《みどりご》の唇を うるほすさまに似たるかな 一つは清《す》みて冷《ひや》やかに 谷の間《あひだ》にほとばしり 葉を重ねたる青草《あを…

高山に登りて遠く望むの歌

高根《たかね》に登りまなじりを きはめて望み眺むれば わがゆくさきの山河《やまかは》は 目にもほがらに見ゆるかな みそらを凌《しの》ぐ雲の峯 砕《くだ》けて遠く青に入る こゞしくくしき磐《いは》が根《ね》の 連なり亙る山脈《やまなみ》は 海にきほ…

わすれ草をよみて

わすれぐさは島田氏のむすめ愛子が遺しおける歌文あまたありけるを、そが教へ親なる人の舟さしよせてしるしありやとつみあつめたるひとまきなり。序のうたは万里小路伯、小伝は東久世伯、追悼のうたを添へたるは竹柏園のうしなり。なほ巻の終にはともがきの…

新潮

一 彼《かれ》あげまきのむかしより 潮《うしほ》の音《おと》を聞き慣れて 磯辺に遊ぶあさゆふべ 海人《あま》の舟路を慕ひしが やがて空《むな》しき其夢は 身の生業《なりはひ》となりにけり 七月夏の海《うみ》の香《か》の 海藻《あまも》に匂ふ夕まぐ…

かりがね

さもあらばあれうぐひすの たくみの奧はつくさねど または深山《みやま》のこまどりの しらべのほどはうたはねど まづかざりなき一声《こゑ》に 涙をさそふ秋の雁《かり》 長きなげきは泄《も》らすとも なほあまりあるかなしみを うつすよしなき汝《なれ》…

うぐひす

さばれ空《むな》しきさへづりは 雀の群《むれ》にまかせてよ うたふをきくや鶯の すぎこしかたの思ひでを はじめて谷を出でしとき 朔風《きたかぜ》寒《さむ》く霰《あられ》ふり うちに望みはあふるれど 行くへは雲に隠《かく》れてき 露は緑の羽《はね》…

月光五首

さなり巌《いはほ》を撃《う》つ波の 夕《ゆふべ》の夢を洗ふとも 緑の岸に枕して 松眠りなばいかにせむ あふげば胸に忍び入る 清き光に照らされて われのみひとり笛吹けど 君踊らずばいかにせむ こよひ月かげ新しき 衣《ころも》を君にもたらすも としつき…

終焉の夕

潮《うしお》は落ちて帰りけり 生命《いのち》の岸をうつ波の やがて夕《ゆふべ》に回《めぐ》れるを ひきとゞむべきすべもなし 行くにまかせよ幾巻《いくまき》の 聖《ひじり》のふみはありとても 老婆のたくみも海山《うみやま》の 薬も今は力なし 八月螢…

暁の誕生

東の空のほのぼのと 汝《な》世は白《しら》みそめにけり この暁《あかつき》のさまを見て 命運《さだめ》をいかに占《うら》なはむ ことにさやけき紅《くれない》の 光を放つ明星や やがて処女《おとめ》となるまでの 汝《な》がおひさきのしるべせよ 朝風…

晩春の別離

時は暮れ行く春よりぞ また短きはなかるらむ 恨《うらみ》は友の別れより さらに長きはなかるらむ 君を送りて花近き 高楼《たかどの》までもきて見れば 緑に迷ふ鶯は 霞《かすみ》空《むな》しく鳴きかへり 白き光は佐保姫の 春の車駕《くるま》を照らすかな…

夏草

目次 晩春の別離 暁の誕生 終焉の夕 月光五首 うぐひす かりがね 新潮 わすれ草をよみて 高山に登りて遠く望むの歌 二つの泉 天の河二首 落梅 婚姻の祝いの歌 農夫 夏草の後にしるす 夏草に野中の水はうつもれぬ もとのこゝろをたとるはかりに 琴後集

鳥なき里

鳥なき里の蝙蝠や 宗助《そうすけ》鍬《くは》をかたにかけ 幸助《かうすけ》網を手にもちて 山へ宗助海へ幸助 黄瓜花さき夕影に 蝉鳴くかなた桑の葉の 露にすゞしき山道《やまみち》を 海にうらやむ幸助のゆめ 磯菜《いそな》遠近《をちこち》砂の上に 舟干…

問答の歌

(少年のためにとてよめるうた二首) 其 一 梅は酸《す》くして梅の樹の 葉かげに青き玉をなし 柿甘くして柿の樹の 梢に高くかゝれるを 君は酸からず甘からず 辛きはいかに唐《とう》がらし こたへていはく吾とても 柿の甘さを知れるなり 梅の酸きをも知れる…

鼠をあはれむ

星近く戸を照せども 戸に枕して人知らず 鼠《ねずみ》古巣《ふるす》を出づれども 人夢さめず驚かず 情《なさけ》の海の淡路島 通ふ千鳥の声絶えて やじりを穿《うが》つ盜人の 寝息をはかる影もなし 長き尻尾《しりを》をうちふりつ 小踊りしつゝ軒《のき》…

藪入

上 朝浅草を立ちいでゝ かの深川を望むかな 片影冷《すゞ》しわれは今 こひしき家に帰るなり 籠の雀のけふ一日《ひとひ》 いとまたまはる藪入や 思ふまゝなる吾身こそ 空飛ぶ鳥に似たりけれ 大川《おおかは》端《ばた》を来て見れば 帯は浅黄の染模樣 うしろ…

響りんりん音りんりん

響《ひびき》りんりん音《おと》りんりん うちふりうちふる鈴高く 馬は蹄《ひづめ》をふみしめて 故郷の山を出づるとき その黒毛なす鬣《たてがみ》は 冷《すゞ》しき風に吹き乱れ その紫の両眼《りやうぐわん》は 青雲遠く望むかな 枝の緑に袖《そで》触れ…

寂寥

岸の柳は低くして 羊の群の絵にまがひ 野薔薇の幹は埋もれて 流るゝ砂に跡もなし 蓼科山《たでしなやま》の山なみの 麓をめぐる河水や 魚住む淵に沈みては 鴨の頭の深緑 花さく岩にせかれては 天の鼓の楽の音 さても水瀬はくちなはの かうべをあげて奔るごと…

常盤樹

あら雄々《をゝ》しきかな傷《いた》ましきかな かの常盤樹《ときはぎ》の落ちず枯れざる 常盤樹の枯れざるは 百千《もゝち》の草の落つるより 傷ましきかな 其《その》枝に懸《かゝ》る朝の日 其幹を運《めぐ》る夕月《ゆふつき》 など行く旅の迅速《すみや…

千曲川旅情の歌

昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ この命なにを齷齪《あくせく》 明日をのみ思ひわづらふ いくたびか栄枯《えいこ》の夢の 消え残る谷に下りて 河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る 嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ 過《いに…

舟路

海にして響く艫《ろ》の声 水を撃つ音のよきかな 大空に雲は飄《たゞよ》ひ 潮《しほ》分けて舟は行くなり 静なる空に透《す》かして 青波《あおなみ》の深きを見れば 水底《みなそこ》やはてもしられず 流れ藻の浮きつ沈みつ 緑なす草のかげより 湧き出づる…

蟹の歌

波うち寄する磯際《いそぎは》の 一つの穴に蟹二つ 鳥は鳥とし並び飛び 蟹は蟹とし棲《す》めるかな 日毎《ひごと》の宿《やど》のいとなみは 乾く間《ま》もなき砂の上 潮《しほ》引く毎に顕《あらは》れて 潮《しほ》満《み》つ毎《ごと》に隠れけり やが…

海辺の曲

うみべといへるしらべに合せてつくりしうた よのわづらひをのがれいでつゝ、ひとりうみべにさまよひくれば、あゝはや、わがむねは、こひのおほなみ、こゝろにやすきひとゝきもなく、くらきうしほのうみよりいでゝ、あふれてきしにのぼれるみれば、つめたきか…

椰子の実

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ 故郷《ふるさと》の岸を離れて 汝《なれ》はそも波に幾月《いくつき》 旧《もと》の樹は生《お》ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる われもまた渚を枕 孤身《ひとりみ》の浮寝《うきね》の旅ぞ 実をとりて胸にあつ…