終焉の夕

潮《うしお》は落ちて帰りけり
生命《いのち》の岸をうつ波の
やがて夕《ゆふべ》に回《めぐ》れるを
ひきとゞむべきすべもなし

行くにまかせよ幾巻《いくまき》の
聖《ひじり》のふみはありとても
老婆のたくみも海山《うみやま》の
薬も今は力なし

八月螢飛び乱れ
終りの床に迷ひきて
まだうらわかきたをやめの
香《にほひ》の魂をさそひけり

みそらの高き戸を出でゝ
彩なす雲のくだるとき
鐘の響も沈《しづ》まりて
眠るがごとく息絶えぬ

麗《うる》はしかりし黒髪を
吹く風いとゞ冷《ひや》やかに
枕を照らす夕暮の
星も思を傷《いた》ましむ

抱きこがるゝひとびとの
涙は床をひたすとも
かをり空しく花折れて
命運《さだめ》の前に仆れかれ

めぐみはあつき父母に
さきだつことのかなしさを
かこちわびてし口唇《くちびる》も
今は艶《つや》なく力なし

慕ひあへりしはらからに
永き別れを告げんとて
深き情《おもひ》にかゞやきし
心の窓も閉ぢはてぬ

病める枕辺《まくらべ》近くきて
夕《ゆふべ》の鳥の鳴く声に
涙ながらも微笑《ほゝゑ》みし
色さえ今はいづくぞや

光も見えずなりぬれば
みまもる人を抱きしめ
名を尋ねつゝ手をとりし
腕《かひな》は石となりにけり

落つる日を見よひとたびは
かゞやきかへり沈むごと
やがて光をまとひしは
つひに消えゆく時なりき

あゝ死の海の底深く
声も言葉も通はねば
なげきあまりしひとびとの
涙は潮《しほ》と流るらん

終りの床の遺骸《なきがら》は
ありし名残を見すれども
はやその魂《たま》はとこしへの
波に隠るゝかもめどり

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