2005-11-12から1日間の記事一覧

夏草の後にしるす

保福寺峠鳥居峠を越えて木曾に入りしはこの夏七月の中旬なりき。福島の高瀬氏はわが姉の稼ぎたるところにて、家は木曾川のほとりなる小丘に倚りて立てり。門を出でゝ見れば大江滔々として流る。われこの家にありて、峨々たる高山の壮観に接し、淙々たる谿谷…

農夫

凡そ万物に本来あり、改作耕稼もまた結要あるべし。農民は朝に霧を払い出て、夕に星を載て帰る。遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇を枕にするといへども、楽も亦其中にあり。人は体を隠に置て気を詰ること老病する本歟。依之、山人は体を詰め気は泰に…

婚姻の祝いの歌

其一 花よめを迎ふるのうた 君まつ宵《よひ》のともしびは いとゞ火影《ほかげ》も花やかに 鶴なきわたる蓬莱の 千世《ちよ》のみどりを照すかな 祝の酒は香《か》にあふれ 錫《すゞ》の堤子《ひさげ》をひたしけり いざや門辺《かどべ》にたちいでゝ 君の来…

落梅

風かぐはしく吹く日より 夏の緑のまさるまで 梢のかたに葉がくれて 人にしられぬ梅ひとつ 梢は高し手をのべて えこそ触れめやたゞひとり わがものがほに朝夕《あさゆふ》を ながめて暮《くら》してすごすとき やがて鳴く鳥おもしろく 黄金《こがね》の色にそ…

天の河二首

其一 七月六日の夕 あすは思へばひとゝせに 一夜《ひとよ》の秋の夕《ゆふべ》なり うき世にしげるこひ草《ぐさ》を みそらの星もつまむとや 北斗は色をあらためて よろづの光なまめきぬ あふげば清し白銀《しろがね》の 夕波《ゆふなみ》高き天の河 深き泉…

二つの泉

自然の母の乳房《ちぶさ》より そこに流るゝ泉あり たとへば花の処女《をとめご》の やがて優しき母となり その嬰児《みどりご》の唇を うるほすさまに似たるかな 一つは清《す》みて冷《ひや》やかに 谷の間《あひだ》にほとばしり 葉を重ねたる青草《あを…

高山に登りて遠く望むの歌

高根《たかね》に登りまなじりを きはめて望み眺むれば わがゆくさきの山河《やまかは》は 目にもほがらに見ゆるかな みそらを凌《しの》ぐ雲の峯 砕《くだ》けて遠く青に入る こゞしくくしき磐《いは》が根《ね》の 連なり亙る山脈《やまなみ》は 海にきほ…

わすれ草をよみて

わすれぐさは島田氏のむすめ愛子が遺しおける歌文あまたありけるを、そが教へ親なる人の舟さしよせてしるしありやとつみあつめたるひとまきなり。序のうたは万里小路伯、小伝は東久世伯、追悼のうたを添へたるは竹柏園のうしなり。なほ巻の終にはともがきの…

新潮

一 彼《かれ》あげまきのむかしより 潮《うしほ》の音《おと》を聞き慣れて 磯辺に遊ぶあさゆふべ 海人《あま》の舟路を慕ひしが やがて空《むな》しき其夢は 身の生業《なりはひ》となりにけり 七月夏の海《うみ》の香《か》の 海藻《あまも》に匂ふ夕まぐ…

かりがね

さもあらばあれうぐひすの たくみの奧はつくさねど または深山《みやま》のこまどりの しらべのほどはうたはねど まづかざりなき一声《こゑ》に 涙をさそふ秋の雁《かり》 長きなげきは泄《も》らすとも なほあまりあるかなしみを うつすよしなき汝《なれ》…

うぐひす

さばれ空《むな》しきさへづりは 雀の群《むれ》にまかせてよ うたふをきくや鶯の すぎこしかたの思ひでを はじめて谷を出でしとき 朔風《きたかぜ》寒《さむ》く霰《あられ》ふり うちに望みはあふるれど 行くへは雲に隠《かく》れてき 露は緑の羽《はね》…

月光五首

さなり巌《いはほ》を撃《う》つ波の 夕《ゆふべ》の夢を洗ふとも 緑の岸に枕して 松眠りなばいかにせむ あふげば胸に忍び入る 清き光に照らされて われのみひとり笛吹けど 君踊らずばいかにせむ こよひ月かげ新しき 衣《ころも》を君にもたらすも としつき…

終焉の夕

潮《うしお》は落ちて帰りけり 生命《いのち》の岸をうつ波の やがて夕《ゆふべ》に回《めぐ》れるを ひきとゞむべきすべもなし 行くにまかせよ幾巻《いくまき》の 聖《ひじり》のふみはありとても 老婆のたくみも海山《うみやま》の 薬も今は力なし 八月螢…

暁の誕生

東の空のほのぼのと 汝《な》世は白《しら》みそめにけり この暁《あかつき》のさまを見て 命運《さだめ》をいかに占《うら》なはむ ことにさやけき紅《くれない》の 光を放つ明星や やがて処女《おとめ》となるまでの 汝《な》がおひさきのしるべせよ 朝風…

晩春の別離

時は暮れ行く春よりぞ また短きはなかるらむ 恨《うらみ》は友の別れより さらに長きはなかるらむ 君を送りて花近き 高楼《たかどの》までもきて見れば 緑に迷ふ鶯は 霞《かすみ》空《むな》しく鳴きかへり 白き光は佐保姫の 春の車駕《くるま》を照らすかな…

夏草

目次 晩春の別離 暁の誕生 終焉の夕 月光五首 うぐひす かりがね 新潮 わすれ草をよみて 高山に登りて遠く望むの歌 二つの泉 天の河二首 落梅 婚姻の祝いの歌 農夫 夏草の後にしるす 夏草に野中の水はうつもれぬ もとのこゝろをたとるはかりに 琴後集