農夫

凡そ万物に本来あり、改作耕稼もまた結要あるべし。農民は朝に霧を払い出て、夕に星を載て帰る。遠方野山に居る時は少し休むことあれば疇を枕にするといへども、楽も亦其中にあり。人は体を隠に置て気を詰ること老病する本歟。依之、山人は体を詰め気は泰にするといふ、是によつて長命し、海人は体を泰にして気を詰る故に短命すといふ。気体不二なりといへども心は叉替るにや。総じて下民の苦は眼を開きて上より心つきて見る、則ち苦も亦明かにして、上の楽も亦弥楽みなりといふ。耕桑は昼夜男女雨露にぬれて、農民辛苦すること甚し。耕し織らずんば何を以てか三宝の其一とせん。民は心気をくだき身を詰めて、天の造化にしたがひ力むるものは良農なり。農人は遊楽の慾薄くして唯雑食の腹に満たんことを願ふものなり。
           (耕稼春秋、初巻)

 序

  利根川のほとりにて

   一の声

見よるはしく照る月の
緑にけぶる夜《よ》のひかり
見よゆるやかに行く水の
流れは深き利根の河
花さきにほふ川岸に
光彩《ひかり》を宿す青草《あをぐさ》の
茂れるかたの静けさは
眠《ねむり》のごとく見ゆるかな

   二の声

さても自在を翼とし
光にありて闇を知り
みそらに居りて冥府《よみ》の世の
声を聴き知るわれらさへ
かの魔界《ふるさと》を立ちいでゝ
かくうるはしき月の夜に
自然の業《わざ》を眺めつゝ
岸のほとりにさまよへば
飽《あ》くとしもなき今宵《こよひ》かな

   三の声

あゝ疑惑《うたがひ》と悲哀《かなしみ》の
夢ひきむすぶ人の子は
いかにこよひの月を見て
夜の思をかさぬらん
げに人のする業《わざ》よりも
いや空《むな》しきはあらじかし
いかに望みは高くして
この天地《あまつち》を狭しとし
泣きつ笑ひつ怒りつゝ
こゝろ一つにすがるとも
そのなすわざを眺むれば
葡匐《はらば》ふ虫にいづれぞや
よしといひ又たあしといひ
むなしき岸は築くとも
かの生滅の波うたば
流るゝ砂にいづれぞや

あしたゆふべの影々《かげかげ》は
舞台《うてな》を馳せてとゞまらず
来《きた》るは虹のごとくにて
帰るは花の散るごとし
過《すぎ》にしあとを窮《きは》むれば
いづれか児戯《じき》にあらざらむ
消えゆくあとを眺むれば
また尋ぬべきすべもなし

露霜《つゆじも》深き利根川
岸辺の小田のあさゆふべ
彼《かれ》鋤鍬《すきくは》を友として
力《つと》め耕す身なれども
家のむかしを尋ねれば
まこと賎しき種《たね》ならず
げにわれはしもこよひより
彼の心の中《うち》に住み
雄ゝしき彼を誘《いざな》ひて
恋さまざまの夢を見せ
時に処女《をとめ》と身を化《な》して
この月影の川岸に
奇《き》しく光を投ぐるごと
あやしき影を彼に投げ
時には夢にあらはれて
安《やす》き心を奪い裂き
胸に霰《あられ》をそゝぎては
涙の露を落《おと》さしめ
うつゝに隠れ夢に出て
光にひそみ影に見え
もゆる試練《ためし》の火となりて
若き農夫を試《こゝろ》みん

   二の声

きけや一ふしほがらかに
遠く吹きすむしらべこそ
彼《かれ》がすさびの笛ならめ

   一の声

さなりさやけき月影に
笛のあるじをながむれば
まことや彼は農夫なり

   三の声

よしうるはしき青草《あをぐさ》の
岸にすわりて彼《かれ》を待たなん

 上のまき

  一 田畠の間なる小道にて

   父

ゆふべ小暗《をぐら》きともしびの
油はつきて消ゆるまで
人は眠りにさそはれて
楽しき夢に入れる間《ま》も
いねられなくにたゞひとり
ひとり枕をかき抱き
鴫《しぎ》の羽掻《はねがき》しばしばも
同じ思ひにかへりつゝ
このもろこしの戦《いくさ》にぞ
汝《なれ》は行《ゆ》かじと嘆きそむ
そのこゝろねをはかりしが
わが疑念《うたがひ》は解けざりし

今こそはかく利根川
岸辺の草に埋もれて
あしたに星の影を履み
ゆふべに深き露を分け
鋤《すき》と鍬《くは》とを肩にして
賎《いや》しき業《わざ》はいとなめど
もとほまれあるものゝふの
高き流れを汲める身ぞ

すぐれし馬にむちうちて
風に真弓《まゆみ》をひき慣らし
胸に溢るゝますらをの
ほまれは海の湧くがごと
のぞみは雲の行くがごと
雄々しかりける吾父も
草葉の影の夢にだに
汝《な》が言の葉を泄《も》れきかば
いかにはげしき紅《くれなゐ》の
血汐の涙流すらむ

げに汝《なれ》はしも吾《わが》家の
高きほまれを捨つるまで
世のことわりもわかるまで
いくさを恐《おづ》る心かや

   農夫

懼《おそ》れやはするよしや今
心を奪ふいかづちの
ふるふがごとく大砲《おほづゝ》の
まなこの前にとゞろくも
われは静かに鍬《くは》とりて
としつき慣れし利根川
岸辺にいでゝ小田《をだ》うたむ
または流るゝ弾丸《たま》飛びて
耳のほとりをかすむとも
たなれの鋤を肩にして
ゆふべの歌をうたひつゝ
いと冷やかに桑の樹の
葉陰《はかげ》を履《ふ》みて帰るべし

   父

しからば遠き軍旅《いくさ》には
などかいでしよなげくらむ

   農夫

なげかざらめや戦《たゝかひ》と
なべてを思ふ吾身なり
剣《つるぎ》をとるも畠《はた》うつも
深き差別《けぢめ》はあらざらむ

われ時として畠中《はたなか》に
手に持つ鍬《くは》を投げ捨てゝ
たがやしするも畠《はた》うつも
土をかへすも草ぎるも
汗も膏《あぶら》もおろかしく
生れいでたるわれひとの
空《むな》しき生涯《いのち》一日《ひとひ》より
二日《ふたひ》につなぐためかとぞ
思えば身をも忘れつゝ
佇立《たゝず》むこともありしなり

まことのさまを尋ぬれば
戦《たゝかひ》とてもまた同じ
野末の草に流れゆく
活ける血汐やいかならん
剣《つるぎ》の霜に滅《ほろ》びゆく
人の運命《さだめ》やいかならん
誰《たれ》か火に入る虫のごと
活《い》ける命をほろぼして
あだし火炎《ほのほ》に身を焚《や》くの
おろかのわざをまなぶべき
嗚呼つはものゝ見る夢の
花や一時《ひととき》春行かば
剣《つるぎ》も骨も深草《ふかくさ》の
青きしげみに埋るらん
げに凄まじき戦《たゝかひ》の
あとにもましてうつし世に
いや悲しきはあらじかし

   父

おろかしやそのくりごとは
夢見る人のいふことぞ

   農夫

さなりうき世の闘争《あらそひ》は
いづれか夢にあらざらん

   父

あゝ汝《な》が耳は聾《しひ》たれば
いかにすぐれしものゝふの
ほまれの鐘も響なし
汝《なれ》が眼《まなこ》は盲《しひ》たれば
いかにまことのたらちをの
言葉の花も色ぞなき
かりそめならぬ世のわざを
嘲《あざけ》り笑ふ言の葉は
さはやかなるに似たれども
罵《のゝし》り狂《くる》ふますらをの
身の行末をながむれば
みな落魄《おちぶれ》と涙のみ

あゝわが胸は苦悶《くるしみ》と
恥辱《はぢ》と忿怒《いかり》に溢れたり
かなしあさまし世の人に
汝《な》が言の葉の泄《も》れもせば
冷たき汗は雨のごと
いかに流れて我を浸《ひた》さん

  二 まへとおなじ小道にて

   母

かくても長き夏の日に
ひとり思ひに沈みつゝ
緑の蔭に佇立《たゝず》みて
いくその時を経《へ》つるぞや
ゆめな恨みそ汝《な》が父の
思ひあまりしくろがねの
拳《こぶし》のあとは紫に
深き傷《いた》みをのこすとも

そはあらそひの痕《あと》としも
思へばさこそ恨みあれ
傷《いた》みはいかに夏の日の
烈《はげ》しきさまに似たりとも
汝《な》がたらちをの秋霜《あきじも》の
教のほどを思ひ見よ
まだいとけなき昔より
好めるまゝに書《ふみ》も読み
ものゝあはれもことわりも
あらかたは知る汝《な》が身なり
たれか好みてうめる児《こ》に
禍《わざはひ》あれと願ふべき
忍びがたきを忍びつゝ
遠き軍旅《いくさ》に行きねかし

   農夫

まことやわれはますらをの
ほまれを知らぬ心より
遠きいくさに出《い》で立つを
なげくものにはあらじかし

あゝ吾胸は写《うつ》すべき
言葉も知らぬかなしみを
宿《やど》せし日より昼も夜も
深き思に沈みつゝ
迷へる虫の窓にきて
かなたこなたに飛ぶがごと
天《あめ》と地《つち》とに迷ふ身の
おろかをかこつ外あらじ
このかなしみの乳房《ちぶさ》より
われさまざまの智慧《ちゑ》を飲み
にがき世の味《あぢ》物の裏
人のまことも虚偽《いつはり》も
あぢはふ身とはなりしなり
このかなしみはあやしくも
我をいざなひ導《みちび》きて
気は世を蓋《おほ》ふますらをの
高きほまれも夢と見せ
祭りの夜の燈火《ともしび》に
戯《たは》るゝ人を影と見せ
暗き舞台《うてな》の幻燈《うつしゑ》に
ものゝかたちの映《うつ》るごと
世のさまざまを見せしめき
このかなしみを吾胸の
深き底より湧き上り
遠きいくさに行くべきを
はなたじとこそとゞむなれ

   母

げにしがらみのせきとめて
流れもあへぬ谷川の
そのかなしみのあらかたも
われはとくより知れるなり

さばれかくまで言ひはりて
軍《いくさ》の旅を厭《いと》ひなば
その暁《あかつき》やいかならむ
思ふも苦《くる》し罪人《つみびと》と
名《な》にも呼ばれてあさゆふべ
暗き牢獄《ひとや》の窓により
星の光を見るの外
身に添ふ影もあらざらん
見よ花深き川岸に
むつまじかりしまとゐさへ
させる嵐のさわぎなば
家のむつびもたのしみも
一夜のうちに破れなむ

人はこの世に生まれきて
得しらぬ途を行くなれば
げにさまざまの山河を
越ゆべき旅の身なるぞや

われも思へば前髪《まへがみ》の
まだ初花《はつはな》のむかしより
はやも命の傾《かたぶ》きて
秋の霜ふるこの日まで
あるは行くへの雲深く
道なき森に迷うごと
光もなくて明《あ》くる日は
空行く鳥を望み見て
張《は》れる翼を羨《うらや》みし
その暁《あかつき》も多かりき
あるはなやめる旅人の
夏の緑の蔭に行き
清《す》める泉をむすぶごと
げに絶えなんとばかりにて
またも生命《いのち》にかへりてし
その夕暮も多かりき

なあやまりそあやまりそ
あゆむに難《かた》き世の路を
見よ人の行く旅路《たびぢ》には
入るべき道のありながら
出《い》づるにかたき谷間《たにあひ》の
多かるとこそ聞くものを
あゝうらわかき旅人《たびびと》の
かゝるほとりに分け入りて
また帰りこぬためしさへ
世にさはなりとしるやしらずや

  三 鍛冶の家にて

   つかひの老婆

望《のぞみ》はむなし待人《まちびと》の
影はそれとも見えざりき

   鍛冶のむすめ

梭《をさ》もつわざにたへかねて
ゆふぐれ窓によりつゝも
汝《な》が帰りこん時をだに
待ちわびてしはあだなりや

   老婆

かの蔭深き緑葉《みどりば》の
柳のほとり尋ねゆき
人やきたると待ちしかど
風は空《むな》しく川岸の
草のおもてを渡るのみ
尋ぬる影はあらざりき

青きみそらに迷ひゆく
雲と雲との絶間《たにま》より
夕日《ゆふひ》はもれて利根川
水に光彩《ひかり》を沈めつゝ
黄金《こがね》の色は川岸の
ゆくへはるかに輝《かゞや》くも
尋ぬる人はあらざりき

ゆふべにかゝる明星の
いとゞさやかにあらはれて
深き光は夏の日に
ふたゝびしらぬ空の花
影はかなたの野の家の
屋根を帯《お》びつゝきらめくも
尋ぬる人はあらざりき

やがて川辺にたちこめし
狭霧のうちに閉《とざ》されて
空《むな》しく帰る渡りしも
ゆるき流れに棹さして
舟やる音《おと》は夕暮の
さみしき空にひゞけども
尋ぬる人はあらざりき

   むすめ

あゝなつかしき夕暮を
人待つ時といふとかや
天《あま》の河原《かはら》に彦星の
たなばたづめと相逢ふも
さみしく更《ふ》けし夜半《よは》ならで
そは夕暮のころとかや
まだ暮れはてぬけふなれば
人待つ望みのこるらん
人一度はいでゆきて
岸のほとりを尋ね見よ

   老婆

はや花草《はなくさ》の影暗く
ねぐらにいそぐ鶏《にはとり》は
沢辺《さはべ》を帰る雛鳥《ひなどり》の
そのかずかずを呼ぶぞかし
竹の林のかなたには
羽音さびしき旅鴉《たびがらす》
雲を望みて飛び行くは
群《むれ》に別れて迷ふなるらん

    むすめ

     一

  門田《かどた》にいでゝ
     草とりの
  身のいとまなき
     昼なかは
  忘るゝとには
     あらねども
  まぎるゝすべぞ
     多かりき

     二

  夕ぐれ梭《をさ》を
     手にとりて
  こゝろ静かに
     織るときは
  人の得しらぬ
     思こそ
  胸より湧きて
     流れけれ

     三

  あすはいくさの
     門出なり
  遠きいくさの
     門出なり
  せめて別れの
     涙をば
  名残にせんと
     願ふかな

     四

  君を思へば
     わずらひも
  照《て》る日にとくる
     朝の露
  君を思へば
     かなしみも
  緑《みどり》にそゝぐ
     夏の雨

     五

  君を思へば
     闇の夜も
  光をまとふ
     星の空
  君を思へば
     浅芽生《あさぢふ》の
  荒れにし野辺も
     花のやど

     六

  胸の思ひは
     つもれども
  吹雪《ふぶき》はげしき
     こひなれば
  君が光に
     照《て》らされて
  消えばやとこそ
     恨《うら》むなれ

  四 林の中

   農夫

時はせまりぬ利根川
水の流れに舟浮けて
都のかたに行く人を
はや岸の辺に待つならむ
なかなしみそ今は我《われ》
すでに心を定めたり
これより遠きもろこしの
軍の旅に行くべきぞ

   むすめ

けふ別れてはいつかまた
相逢ふまでの名残ぞや
あゝ人去りて鳥なかば
鳥の行くへに花さかば
花の色香によそへつゝ
なれにし岸の青草《あをぐさ》の
上にすわりて汝《なれ》がため
幸《さち》あれかしと祈らなむ

   農夫

思へばわれはこの日ごろ
あだなる夢に迷ひつゝ
かりそめならぬ汝《なれ》が身を
あやまりしこそうたてけれ

   むすめ

さらば二人のえにしをば
あだなる夢と思ふかや

   農夫

さなり波たつ海原《うなばら》の
底はありとも吾恋は
そこひ知らずとかこちつゝ
汝《なれ》になげきしけふまでを
あだなる夢と思ひてよ
あゝあやまりて我は早《は》や
汝《なれ》に恋する心なし
げにおろかしきわがために
汝《な》が身の花はつながれて
行くべきかたに得も行かず
いくその時を経てしぞや
なあやまりそかなしみそ
すでに冷たき石なれば
恋は用なき吾身なり
めぐみは深きたらちねに
行きてまことをつくせかし

   むすめ

その言の葉の底をだに
汲みしらじとにあらねども
あゝ汝《なれ》は吾《わが》生命《いのち》なり
われは生命《いのち》に離れたり

たゞ忘れじとひとことの
頼むべきだにありもせば
いかに苦しきなやみをも
われは汝《なれ》ゆゑ忍ぶべし
いかにさかしき世の人の
笑ひはすとも聞き入れじ
さるをつれなき言の葉に
痛みを胸に残しつゝ
かくて互に別れなば
われはたとへば白百合の
人に折られし花のごと
今は道辺に捨てられて
いとすみやかに萎《しを》れなむ

人の望みと願ひとに
満つるかぎりはあらねども
汝《なれ》夫《つま》となり父となり
われ妻となり母となり
世にある上《うえ》はかくてこそ
縁《えにし》の甲斐もありけめを
かゝる命運《さだめ》は朽ちてゆく
かよわき人の身の常《つね》か

   農夫

汝《なれ》あやまれりあやまれり
処女《をとめ》の胸の花一枝《はないつし》
二つとはなき色香ぞや
かりそめならぬ汝《なれ》が身の
宝《たから》を深く蔵《をさ》めてよ
あゝ心せよあろかしき
われは虫にも劣《おと》る身ぞ
空に翅《つばさ》をうちのべて
思ひのまゝに舞ふ鷹も
人と生れし我よりは
賢《かし》こき術《すべ》を知るぞかし

はや川岸のかなたにて
喇叭の響きこゆるは
舟のよそほひとゝのひて
呼ぶにあらんあゝさらば
遠き軍《いくさ》に出でたちて
命さだめぬ身なれども
軍《いくさ》の神のみめぐみに
われもほまれは揚《あ》げなむを
さらば汝《なれ》やもたらちねの
深きめぐみをあだにせで
えにしもあらばよきかたに
末栄《さかえ》ある身を立てよ

   むすめ

逢ふ時あれば二人《ふたり》また
別るゝ時のありぞとは
ことわりしらぬ身なれねど
かくも惜めば惜まるゝ
われら二人の名残かな

さらば再びかへりきて
戦《いくさ》がたりをなさんまで
国ことなれる春秋《はるあき》の
雨と風とを厭《いと》ひてよ
剣《つるぎ》の影の霜さえて
戦《いくさ》の野辺は寒《さむ》くとも
かのほまれあるつはものゝ
猛《たけ》きわざには劣りそよ
あゝ利根川の水のごと
柳のかげのあさゆふべ
胸小休《むねをやみ》なき吾身より
涙は汝《なれ》がかたに流れん

下のまき

  一 緑の樹かげにて

   農夫

はや二とせは過ぎにけり
軍《いくさ》の旅の寝覚には
暁《あかつき》空に吹きすめる
喇叭の声をきくごとに
思い浮べし故郷《ふるさと》の
今はうれしく見ゆるかな

金州城の秋深く
篝《かゞり》の影の暗き夜は
露営の霜の寒さより
また倚子山のたゝかひの
弾丸《たま》の霰《あられ》のたばしりて
照《て》る日も暗きさままでを
わがなつかしき故郷《ふるさと》の
人に告げなばいかならむ
夕顔白き花影《はなかげ》に
祝の酒を汲まむとき
心雄々しき吾父は
いかに眼《まなこ》をきらめかし
白髪《しらかみ》長きわが叔父《をぢ》は
いかに耳をばそばだてゝ
わが説きいづる二とせの
戦《いくさ》がたりを聞くならむ

あゝなつかしき古里《ふるさと》よ
流れかはらぬ利根川
遠く筑波の青山《あをやま》の
聳《そび》ゆるかたの雲間《くもま》より
万代《よろづよ》おなじ白き日の
光はもれて山川《やまかは》を
もとのまゝにも照らすかな

あゝなつかしの古里よ
国を立ちいで春秋《はるあき》の
長き夢をば重ねつゝ
今帰りきて佇立《たゝず》めば
樹蔭《こかげ》はもとのふかみどり
梅の梢に葉がくれて
鳴く鳥の音《ね》こゝちよや

さてもかなたの川岸の
深き並樹《なみき》のかげにして
風さそひくる音《おと》やなに
きけば響銅《さはり》の【ねうはち】の
うき世にありしかなしみを
うき世の外に伝ふるは
いかなる人の野辺おくり

六道の松明《まつ》紙の旗
すでに緑に隠れたり
静かに行くをながむれば
白き楊《やなぎ》の木下《こした》かげ
昼かゞやかす白張《しらはり》の
亡き人送るともしびは
火影《ほかげ》動《ゆる》ぎて霊魂《たましひ》の
行くへをいかに照らすらん

香《かう》のけふりも愁《うれ》ひつゝ
天にのぼるに似たりけり
そなへの花も悲みて
地に仆《たふ》るゝに似たりけり
無礼《なめげ》はゆるせ影見せし
若き聖《ひじり》にことゝはむ
そも誰人《たれびと》のなきがらを
こは送りゆく群《むれ》ならん

   僧

水静かなる利根川
流れの岸に生れてし
鍛冶のをとめと聞きしかど
その名は君よ思ひでず

げに絶えがたき恋をしも
味《あぢ》はふ人のある世かな
かれも浮きたる心より
花さきにほふあさゆふべ
岸辺の草にたづさはり
水の流にかはらじと
契れる人のありしなり

そは数ふれば夏の夜の
星より多きためしかな
行くへも遠く別れては
遂に逢瀬の絶えしより
若き命にさきいでし
心の春の花さへも
いつしかいとゞいたましき
わづらひとこそかはりけり

ふたゝび桃はさきかへり
ふたゝび菫《すみれ》にほへども
人は空《むな》しく帰らねば
恋のなやみに朽ちはてゝ
世にすぐれたるたをやめの
恨みやいかに長からん

   農夫

それはまことか吾胸は
深き傷《いた》みを覚《おぼ》えたり
さばれひとびと待つらんを
いざや家路にいそがらむ

   僧

われあまたゝび万性《まんしやう》に
高き御法《みのり》を説きしかど
かくまで人をうごかせし
しるきためしはあらざりき
げに西風《にしかぜ》の吹けるとき
飛び散る秋の葉のごとく
思へばかれのかほばせは
死灰《しくわい》の色にかはりつゝ
その口唇《くちびる》はうちそよぐ
葦《あし》の一葉《ひとは》にまがひけり

    少女

     一

  ゆきてとらへよ
     大麦の
  畠《はたけ》にかくるゝ
     子兎《こうさぎ》を

     二

  われらがつくる
     麦畠《むぎばた》の
  青くさかりと
     なるものを

     三

  たわにみのりし
     穂のかげを
  みだすはたれの
     たはむれぞ

     四

  麦まきどりの
     きなくより
  丸根《まるね》に雨の
     かゝるまで

     五

  朝露《あさつゆ》しげき
     星影《ほしかげ》に
  片《かた》さがりなき
     鍬《くは》まくら

     六

  ゆふづゝ沈む
     山のはの
  こだまにひゞく
     はたけうち

     七

  われらがつくる
     麦畠《むぎばた》の
  青くさかりと
     なるものを

     八

  ゆきてとらへよ
     大麦の
  畠にかくるゝ
     子兎を

  二 深夜

   農夫

小夜《さよ》ふけにけりたゞひとり
流れに沿ふて照る月の
影を望めば白銀《しろがね》の
みそらの弓につがひてし
高き光の矢は落ちて
わが小休《をやみ》なき胸を射《い》る

草木《くさき》も今や沈《しづ》まりて
昼の響《ひびき》は絶えにけり
世のあらそひもわづらひも
深き眠りにつゝまれて
いとゞ楽しき夏の夜《よ》の
短かき夢に入りにけり
風呼《よ》び起《おこ》し雲に乗る
高光《たかひか》りますすめろぎも
剣《つるぎ》をぬきてたちて舞ふ
猛《たけ》き心のますらをも
今は静かに枕して
をさなごのごと眠るらん
昼も夜《よ》もなく行く川の
声なきかたを眺むれば
羽袖もいとゞ力なく
空《むな》しき水に飛ぶ螢
あゝそのかげは亡き人の
香《にほひ》の魂《たま》か汝《なれ》もまた
ありし昔の思ひ出に
岸辺の草に迷ふらん

あふるゝばかり湧きいづる
血潮と遠き望みとは
また絶えがたきかなしみの
そのしがらみにせかれつゝ
うたゝ苦しき煩悶《たゝかひ》を
人にはつゝみかくすとも
あふげば深く吾胸に
さし入る月の光には
げに覆ふべき影もなし

なにを心の柱とし
なにを吾身の宿《やど》とせむ
忍ぶとすれど夜《よ》の月の
空行くかげを見るときは
万事《よろづ》の映《うつ》る心地《こゝち》して
涙流れてとゞまらず

時には親もはらからも
家も宝も捨てはてゝ
世のあざけりと身の恥辱《はぢ》を
思ふいとまのあらばこそ
すがりとゞむるものあらば
蹴落《けおと》すまでも破《やぶ》りいで
行くへも知らず黒雲《くろくも》の
風に乱れて迷ふごと
またはいざよふ大舟《おほふね》の
海に流れて落つるごと
または秋鳴く雁がねの
ひとりみそらに飛べるごと
身はよるべなくうらぶれて
道なき野辺に分けて入り
あるは身に添ふ光なく
遠き浦辺にさまよひて
知る人もなき花草《はなぐさ》に
埋《うも》れはてんと思ふなり
時にはたえて人の世の
響かよはぬ寺に入り
紅《あか》き涙を墨染の
衣《ころも》の袖につゝみつゝ
光をまとふみ仏《ほとけ》の
霊机《つくゑ》の前にひざまづき
風吹く時は暁《あかつき》の
読経《どぎやう》に夢を破りすて
雨ふる時は夕暮の
鐘に心を澄《す》ましつゝ
よしや苦しき雪山《せつざん》の
氷を胸にそゝぐとも
身にまつはれるかなしみを
のがれいでんと思ふなり

時には早く死《し》にうせて
朽つる形骸《むくろ》をひきはなれ
たゞ霊魂《たましひ》の身となりて
暗き幽府《よみぢ》に迷ひゆき
かの亡き人と亡き我と
魂《たま》と魂とは抱《いだ》き合い
いかに他界《たかい》の風吹きて
われら二人を飛ばすとも
いかに不断《ふだん》の火はもえて
われら二人を焼くとても
二人の魂《たま》は常闇《とこやみ》に
離れじ朽ちじ亡《ほろ》びじと
契らまほしく思ふなり

げにその昔ふたりして
楽しく仰ぎ見し時も
今は心の萎《しを》れつゝ
涙にぬれて見る時も
同じ光にかゞやきて
落ちて声なき月の影

   (一番鶏の声きこゆ)

鶏《にわとり》鳴きぬ指をりて
その声々《こゑごゑ》を数ふれば
眠りの墓にとざされて
深く沈めるこの夜《よ》やも
はや生命《いのち》あるかの日にぞ
よみがへるらん

       いつまでか
かくてあるべき鳴呼われは
今は心を定めたり

わが黒髪はぬれ乱れ
わが口唇《くちびる》はうちふるふ
胸の傷《いた》みに堪へかねて
くるしきさまをたとふれば
枝に別れて落つる葉の
疾《はげ》しき風に随ひて
たゞよふ身こそ悲しけれ

力烈《はげ》しきいかづちの
ふるふがごとくわが魂《たま》は
いたくもふるひわなゝきて
思ひなやめる吾胸の
旧《ふる》き望みは絶《た》えにけり

あゝわづらひを盛り入れし
身は盃《さかづき》に似たりけり
流れて落つる河波《かはなみ》よ
汝《なれ》も流れのきはみまで
行きなば行きね遠海《とほうみ》に
落ちなば落ちねわれもまた
おもひひとしく溢れいで
この盃を傾《かたぶ》けむ

誰《たれ》か破《や》れにし古瓶《ふるがめ》に
みどりの酒をかへすべき
誰《たれ》か波うつ磯際《いそぎは》に
流るゝ砂をとゞむべき
さらばこれより亡き人の
家のほとりを尋ね見て
雲に浮びて古里《ふるさと》を
のがるゝ時の名残にもせむ

  三 鍛冶の家のほとりにて

   鍛冶

     一

  宝《たから》はあはれ
     砕《くだ》けゝり
  さなり愛児《まなご》は
     うせにけり
  なにをかたみと
     ながめつゝ
  こひしき時を
     忍ぶべき

     二

  ありし昔の
     香《か》ににほふ
  薄《うす》はなぞめの
     帯よけむ
  麗《うる》はしかりし
     黒髪の
  かざしの紅《あか》き
     珠《たま》よけむ

     三

  帯はあれども
     老《おい》が身に
  ひきまとふべき
     すべもなし
  珠《たま》はあれども
     白髪《しらかみ》に
  うちかざすべき
     すべもなし

     四

  ひとりやさしき
     面影《おもかげ》は
  眼《まなこ》の底に
     とゞまりて
  あしたにもまた
     ゆふべにも
  われにともなふ
     おもひあり

     五

  あゝたへがたき
     くるしみに
  おとろへはてつ
     炉前《ほどまへ》に
  仆《たふ》れかなしむ
     をりをりは
  面影さへぞ
     力なき

     六

  われ中槌《なかつち》を
     うちふるひ
  ほのほの前に
     はげめばや
  胸にうつりし
     亡き人の
  語《かた》らふごとく
     見ゆるかな

     七

  あな面影の
     わが胸に
  活《い》きて微笑《ほゝゑ》む
     たのしさは
  やがてつとめを
     いそしみて
  かなしみに勝つ
     生命《いのち》なり

     八

  汗《あせ》はこひしき
     涙なり
  労働《つとめ》は活《い》ける
     思なり
  いでやかひなの
     折るゝまで
  けふのつとめを
     いそしまむ

   農夫

歌ふをきけばいさましや
さてもその歌なつかしや
枕をうちてよもすがら
なげきあかせしものならで
誰《たれ》かゝくまでなつかしき
歌の心を思ふべき

さなり大方《おほかた》世の常の
親のさばかりいとし子を
傷《いた》む心に沈みなば
たゞひたすらに悲哀《かなしみ》の
涙にぬれつこがれつゝ
心砕けつありなんを
または命をはかなみて
夢に驚く心より
哭きたふるゝ暁は
活《い》ける血汐も枯れなむを
汗はこひしき涙とや
労働《つとめ》は活ける思とや
あゝうらわかき吾身すら
たゞかなしみに掩《おほ》はれて
利根の岸なる古里《ふるさと》に
かへりし日より鋤鍬《すきくは》を
手に持つ力なきものを
流るゝ汗のしたゝりて
かの白髪《しらかみ》はぬるゝまで
烈火《ほのほ》のなかの紅烙《あかやき》や
濃青《こあを》に見ゆる純鉄《じゆんてつ》は
やがてかはれる紅《べに》の色
うてば流るゝ鉄滓《たつかす》の
光となりて散らば散れ
こひつむせびつ中槌《なかづち》の
力をふるふ雄々しさよ

げにいさましや亡き人の
そのたらちをのかくまでも
今の力を鞭《むちう》ちて
昨日《きのふ》の夢と戦《たゝか》へる
活《い》ける姿にくらぶれば
われかなしみの墓深く
はやも小暗《をぐら》き穴に入り
若き命はありながら
埋《うも》れ朽つるに似たるかな

あゝあやまちぬ年老いて
霜ふる髪は乱れつゝ
流るゝ汗にうるほふも
手には膏《あぶら》をしぼりきて
烈火《ほのほ》にむかふ人のごと
われもふたゝび利根川
岸のほとりの青草《あをぐさ》の
しげれるかたに小田《をだ》うちて
雄々しき心かきおこし
うれひに勝ちて戦《たゝか》はむ

さなり朧の春の夜の
その一時《ひととき》の夢を見て
たゞ花に酔ふ蝶のごと
はかなくてのみ過《すご》す日は
すでに昔となりにけり
今は緑の樹の蔭に
かの智慧《ちゑ》の葉の生《お》ひ茂り
活《い》ける汐《うしほ》は流れきて
ゆうべの夢を洗ひつゝ
動ける虫は巣を出《い》でゝ
草のしげみにはひめぐり
力あふるゝ姿こそ
げにこのごろの夏なれや

望みをさそふ朝風《あさかぜ》は
樹々《きゞ》の梢をわたりけり
あゝよしさらば白百合の
花さきにほふ川岸の
故《むかし》の園《その》に立ち帰りみん

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