胸より胸に
其 一
めぐり逢ふ
君やいくたび
めぐり逢《あ》ふ君やいくたび
あぢきなき夜《よ》を日にかへす
吾《わが》命暗《やみ》の谷間も
君あれば恋のあけぼの
樹《き》の枝に琴は懸《か》けねど
朝風の来て弾《ひ》くごとく
面影に君はうつりて
吾胸を静かに渡る
雲迷ふ身のわづらひも
紅《くれなゐ》の色に微笑《ほゝゑ》み
流れつゝ冷《ひ》ゆる涙も
いと熱き思《おもひ》を宿す
知らざりし道の開けて
大空は今《いま》光なり
もろともにしばしたゝずみ
新しき眺めに入らむ
其 二
あゝさなり
君のごとくに
あゝさなり君のごとくに
何かまた優しかるべき
帰り来てこがれ侘《わ》ぶなり
ねがはくは開けこの戸を
ひとたびは君を見棄てゝ
世に迷ふ羊なりきよ
あぢきなき石を枕に
思ひ知る君が牧場《まきば》を
楽しきはうらぶれ暮《くら》し
泉《いづみ》なき砂に伏《ふ》す時
青草《あをぐさ》の追懐《おもひで》ばかり
悲しき日楽しきはなし
悲しきはふたゝび帰り
緑なす野辺《のべ》を見る時
飄泊《さまよひ》の追懐《おもひで》ばかり
楽しき日悲しきはなし
その笛を今は頼まむ
その胸にわれは息《いこ》はむ
君ならで誰《たれ》か飼ふべき
天地《あめつち》に迷ふ羊を
其 三
思より
思をたどり
思《おもひ》より思をたどり
樹下《こした》より樹下をつたひ
独《ひと》りして遅く歩めば
月今夜《こよひ》幽《かす》かに照らす
おぼつかな春のかすみに
うち煙《けぶ》る夜の静けさ
仄白《ほのしろ》き空の鏡は
俤《おもかげ》の心地《こゝち》こそすれ
物皆《ものみな》はさやかならねど
鬼の住む暗にもあらず
おのづから光は落ちて
吾《わが》顔に触《ふ》るぞうれしき
其《その》光こゝに映りて
日は見えず八重《やへ》の雲路《くもぢ》に
其影はこゝに宿《やど》りて
君見えず遠の山川《やまかは》
思《おも》ひやるおぼろおぼろの
天《あま》の戸は雲かあらぬか
草も木も眠れるなかに
仰ぎ視て涕《なみだ》を流す
其 四
吾恋は
河辺に生ひて
吾恋は河辺《かはべ》に生《お》ひて
根を浸《ひた》す柳の樹なり
枝延びて緑なすまで
生命《いのち》をぞ君に吸《す》ふなる
北のかた水去り帰り
昼も夜《よ》も南を知らず
あゝわれも君にむかひて
草を藉《し》き思《おもひ》を送る
其 五
吾胸の
底のこゝには
吾《わが》胸の底のこゝには
言ひがたき秘密《ひめごと》住めり
身をあげて活《い》ける牲《にへ》とは
君ならで誰かしらまし
もしやわれ鳥にありせば
君の住む窓に飛びかひ
羽を振りて昼は終日《ひねもす》
深き音《ね》に鳴かましものを
もしやわれ梭《をさ》にありせば
君が手の白きにひかれ
春の日の長き思《おもひ》を
その糸に織らましものを
もしやわれ草にありせば
野辺《のべ》に萌《も》え君に踏まれて
かつ靡《なび》きかつは微笑《ほゝゑ》み
その足に触れましものを
わがなげき衾《しとね》に溢《あふ》れ
わがうれひ枕《まくら》を浸《ひた》す
朝鳥《あさとり》に目さめぬるより
はや床は濡れてたゞよふ
口脣《くちびる》に言葉ありとも
このこゝろ何か写さむ
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ伝ふべきなれ
其 六
君こそは
遠音に響く
君こそは遠音《とほね》に響く
入相《いりあひ》の鐘にありけれ
幽《かす》かなる声を辿《たど》りて
われは行く盲目《めしひ》のごとし
君ゆゑにわれは休まず
君ゆゑにわれは仆《たふ》れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をわづかに捜《さぐ》る
たゞ知るは沈む春日の
目にうつる天《そら》のひらめき
なつかしき声するかたに
花深き夕《ゆふべ》を思ふ
吾足は傷つき痛み
吾胸は溢れ乱れぬ
君なくば人の命に
われのみや独《ひとり》ならまし
あな哀《かな》し恋の暗《やみ》には
君もまた同じ盲目《めしひ》か
手引《てびき》せよ盲目《めしひ》の身には
盲目《めしひ》こそうれしかりけれ
