蜑のなげき

風よ静かに彼《か》の岸へ
こひしき人を吹き送れ
海を越え行く旅人の
群《むれ》にぞ君はまじりたる

八重《やへ》の汐路《しおぢ》をかき分けて
行くは僅《わずか》に舟一葉《ふねひとは》
底白波《しらなみ》の上なれば
君安かれと祈るかな

海とはいへどひねもすは
皐月《さつき》の野辺《のべ》と眺め見よ
波とはいへど夜もすがら
緑の草と思ひ寝よ

もし海怒り狂ひなば
われ是岸《このきし》に仆《たふ》れ伏し
いといと深き歎息《ためいき》に
其《その》嵐をぞなだむべき

楽しき初《はじめ》憶《おも》ふ毎《ごと》
哀《かな》しき終《をはり》堪へがたし
ふたゝびみたびめぐり逢ふ
天《あま》つ恵みはありやなしや

あゝ緑葉《みどりば》の嘆《なげき》をぞ
今は海にも思ひ知る
破れて胸は紅《あか》き血の
流るゝがごと滴《したゝ》るがごと

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