江上の曲

水緩《ゆる》やかに、白雲《しらくも》の
影をうかべて、野を劃《かぎ》る
川を隔《へだ》てて、西東、
西の館《やかた》ににほひ髪
あでなる姫の歌絶えず、
東の岸の草蔭に
牧《まき》の子ひとり住《すま》ひけり。

姫が姿は、弱肩《よわがた》に
波うつ髪の緑《みどり》なる
雲を被《かづ》きて、白龍《はくりゆう》の
天《あめ》の階《はし》ふむ天津女《あまつめ》が
羽衣ぬげるたたずまひ。
牧の子が笛、それ、野辺の
白き羊がうら若き
瞳をあげて大天《おほあめ》の
円《まろ》らの夢にあこがるる
おもひ無垢《むく》なる調なりき。

されども川の西東、
水の碧《みどり》の胸にして、
月は東に、日は西に
立ちならびたる姿をば
静かに宿す時あれど、
二人が瞳、ひと日だに
相逢ふ事はなかりけり。

ふたりが瞳ひと日だに
あひぬる事はあらざれど、
小窓《をまど》、桜の花心地《はなごゝち》
春日《はるび》燻《くん》ずる西の岸、
とある日、姫が紫の
とばりかかげて立たす時、
緑草野《みどりくさの》の丘《をか》遠く
いとも和《やは》らに、たのしげに
春の心のただよひて、
糸遊《いという》なびく野を西へ、
水面をこえて浮びくる
牧の子が笛聞きしより、
何かも胸に影遠き
むかしの夢の仄《ほの》かにも
おとづれ来《く》らむ思ひにて、
昼《ひる》はひねもす、日を又日、
姫があでなる俤《おもかげ》は、
広野《ひろの》みどりのあめつちを
枠《わく》のやうなる浮彫《うきぼり》と、
やかたの窓に立たしけり。

また、夕されの露の路、
羊を追ふて牧の子が
草の香深き岸の舎《や》に
かへり来ぬれば、かすかにも
薄光《うすあかり》さす川面《かはおも》に
さまよひわたる歌声の
美《うるは》し夢に魂ひかれ、
ただ何となくその歌の
主《ぬし》を恋しみ、独木舟《うつろぶね》、
朽木《くちき》の杭《くへ》に纜《ともづな》を
解《と》きて、夜な夜な牧の子は
西の岸にと漕《こ》ぎ行きぬ。

ああ、ああされど日を又夜、
ふたりが瞳、ひとたびも
相あふ時はあらざらき。
姫が思ひはただ遠き
昼《ひる》の野わたるたえだえの
笛のしらべの心にて、
牧の子が恋、それやはた、
帳《とばり》ゆらめく窓洩れて
灯影《ほかげ》とともにゆらぎくる
清《すゞ》しき歌の心のみ。

姫は夢見ぬ、『かの野辺の
しらべぞ、夜半《よは》のわが歌の
天《あめ》よりかへる反響《こだま》なれ。』
また夢見けり、牧の子も、
『かの夜な夜なの歌こそは、
白昼《まひる》わが吹く小角《くだ》の音の
地心《ちしん》に泌《し》みし遺韻《なごり》よ。』と。

牧の子は野に、いと細き
希望《のぞみ》の節《ふし》の笛を吹き、
姫はさびしく、紫の
とばりを深み、夜半《よは》の窓、
人なつかしのあこがれの
柔《やは》き歌声うるませて、
かくて日毎に姫が目は
牧野《まきの》にわりし、夜な夜なに
牧の子が漕ぐうつろ舟
西なる岸につながれて、
桜花散る行春《ゆくはる》や、
行きて、いのちの狂ひ火の
狂ふ焔《ほむら》の深緑《ふかみどり》、
ただ燃えさかる夏の風
野こえてここにみまひけり。

ああ夏なれば、日ざかりの
光にきほふ野の羊、
草踏み乱し、埒《らち》を超《こ》え、
泉の縁《ふち》のたはぶれに
鞭《むち》ををそれぬこをどりや、
西の岸にも、葉桜に、
南蛮鳥《なんばんてう》は真夏鳥《まなつどり》、
来て啼く歌は、かがやかの
生《い》ける幻誘ふ如、
ふる里《さと》とほき南《みんなみ》の
燃《も》えにぞ燃ゆる恋の曲《きよく》、
照る羽つくろひ、瞳《め》をあげて、
のみど高らに伝《つた》ふれど、
さびしや、二人、日を又夜、
相見る時はあらざりき。
胸に渦巻くいのちの火
その焔《ほむら》にぞ燬《や》かれつつ、
ああ燬《や》かれつつ、かくて猶、
捉《とら》へがたなき夢追ふて、
水ゆるやかの大川の
(隔《へだ》てよ、さあれ浮橋《うきはし》の)
西と東に、はかなくも
影に似る恋つながれぬ。

夏また行きぬ。かくて猶、
ああ夢遠きあこがれや、
はかなき恋はつながれぬ。
牧野《まきの》の草に、『秋』はまづ
野菊と咲きて、小桔梗《をぎきやう》に、
水引草にいろいろの
露染衣《つゆぞめごろも》、虫の音も、
高吹《たかふ》く風も追々《おひおひ》に、
ひと葉ひと葉と水に散る
岸の桜の紅葉《もみぢ》さへ、
夢追ふ胸になつかしく
また堪へがたき淋しさを
この天地にさそひ来ぬ。

ひと夜、月いと明《あか》くして、
咽《むせ》ぶに似たる漣《さざなみ》の
岸の調《しらべ》も何となく、
底ひ知られぬ水底《みなぞこ》の
秘めたる恋の音にいづる
おとなひの如聞かれつつ、
まろらの月のおもて、また
わが心をばうつすとも
見えて、ああその恋心《こひごゝろ》
いと堪へがたき宵なりき。
牧の子が舟ゆるやかに
東の岸をこぎ出でぬ。

高窓洩れて、夢深き
月にただよふ姫が歌、
今宵ことさら澄み入りて、
ああ大川も今しばし
流れをとどめ、天地の
よろづの魂もその声の
波にし融《と》けて浮き沈み、
ただ天心《てんしん》の月のみか
光をまして、その歌の
切《せち》なる訴《うた》へ聴くが如、
この世の外の白鳥の
かがなき高き律《しら》べもて、
水面《みのも》しづかにいわたれば、
しのびかねてや、牧の子は
擢《かひ》なげすてて、中流《ちうりう》の
水にまかする独木舟《うつろぶね》、
舟をも身をも忘れ果て、
息もたえよと一管《ひとくだ》の
笛に心を吹きこみぬ。

たちまち姫が歌やみて、
窓はひらけぬ。月影に
今こそ見ゆれ、玲瓏《らいろう》の
光に浮ぶ姫が面《おも》。
小手《こて》をばあげて招《まね》げども、
擢《かひ》なき舟はとどまらず。
舟も流れて、人も流れて、
笛のしらべも遠のくに、
呼ぶ名知らねば、姫はただ
慣《な》れにし歌をうたひつつ、
背《せ》をのびあがり、のびあがり、
あなやと思ふまたたきに、
袖ひらめきて、窓の中
姿は消えぬ。川のおも
月は百千《もゝち》にくだかれぬ。

かくてこの夜の月かげに
姫がみ魂も、笛の音も
はてなき天《あめ》にとけて去り、
かなしき恋の夢のあと
独木《うつろ》の舟ともろともに、
人知りがたき海原の
秘密の底に流れけり。

(甲辰九月十七日夜) 

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