寂寥

岸の柳は低くして
羊の群の絵にまがひ
野薔薇の幹は埋もれて
流るゝ砂に跡もなし
蓼科山《たでしなやま》の山なみの
麓をめぐる河水や
魚住む淵に沈みては
鴨の頭の深緑
花さく岩にせかれては
天の鼓の楽の音
さても水瀬はくちなはの
かうべをあげて奔るごと
白波高くわだつみに
流れて下る千曲川

あした炎をたゝかはし
ゆふべ煙をきそひてし
駿河にたてる富士の根も
今はさびしき日の影に
白く輝く墓のごと
はるかに沈む雲の外
これは信濃の空高く
今も烈しき火の柱
雨なす石を降らしては
みそらを焦す灰けぶり
神夢さめし天地の
ひらけそめにし昔より
常世につもる白雪は
今も無間の谷の底
湧きてあふるゝ紅の
血潮の池を目にみては
布引に住むはやぶさ
翼をかへす浅間山

あゝ北佐久の岡の裾
御牧が原の森の影
夢かけめぐる旅に寝て
安き一日もあらねばや
高根の上にあかあかと
燃ゆる炎をあふぐとき
み谷の底の青巌に
逆まく浪をのぞむとき
かしこにこゝに寂寥《さびしさ》の
その味ひはにがかりき

あな寂寥《さびしさ》や其の道は
獣の足の跡のみか
舞ひて見せたる大空の
鳥のゆくへのそれのみか
さてもためしの燈火に
若き心をうかゞへば
人の命の樹下蔭
花深く咲き花散りて
枝もたわゝの智慧の実を
味ひそめしきのふけふ
知らずばなにか旅の身に
人のなさけも薄からむ
知らずばなにか移る世に
仮の契りもあだならむ
一つの石のつめたきも
万の声をこゝに聴き
一つの花のたのしきも
千々の涙をそこに観る
あな寂寥《さびしさ》や吾胸の
小休もなきを思ひみば
あはれの外のあはれさも
智慧のさゝやくわざぞ是

かの深草の露の朝
かの象潟の雨の夕
またはカナンの野辺の春
またはデボンの岸の秋
世をわびゞとの寝覚には
あはれ鶉の声となり
うき旅人の宿りには
ほのかに合歓《ねむ》の花となり
羊を友のわらべには
日となり星の数となり
麦に添ひ寝の農夫には
はつかねずみとあらはれて
あるは形にあるは音に
色ににほひにかはるこそ
いつはり薄き寂寥《さびしさ》よ
いづれいましのわざならめ

さなりおもては冷やかに
いとつれなくも見ゆるより
深き心はあだし世の
人に知られぬ寂寥《さびしさ》よ
むかしいましが雪山の
仏の夢に見えしとき
かりに姿は花も葉も
根もかぎりなき薬王樹
むかしいましが湘湘の
水のほとりにあらはれて
楚に捨てられしあてびとの
熱き涙をぬぐふとき
かりにいましは長沙羅の
鄂渚《がくしょ》の岸に生ひいでて
ゆふべ悲しき秋風に
香ひを送る螵《けい》の草
またはいましがパトモスの
離れ小島にあらはれて
歎き仆るゝひとり身の
冷たき夢をさますとき
かりに面は照れる日や
首はゆふべの空の虹
衣はあやの雲を着て
足は二つの火の柱
黙示をかたる言葉《おもて》は
高きらつぱの天の声

思へばむかし北のはて
舟路侘しき佐渡が島
雲に恋しき天つ日の
光も薄く雪ふれば
毘藍《びらん》の風は吹き落ちて
梵音声《ぼんおんじやう》を驚かし
岸うつ波は波羅密の
海潮音《かいてうおん》をとゞろかし
朝霜ふれば袖閉ぢて
衣は凍る鴛鴦の羽
夕霜ふれば現し身に
八つのさむさの寒古鳥
ましてや国の罪人の
安房の生れの栴陀羅《あま》が子を
あな寂寥《さびしさ》や寂寥や
ひとりいましにあらずして
天にも地にも誰かまた
そのかなしみをあはれまむ

げに昼の夢夜の夢
旅の愁にやつれては
日も暖に花深き
空のかなたを慕ふとき
なやみのとげに責められて
袖に涙のかゝるとき
汲みて味ふ寂寥《さびしさ》の
にがき誠の一雫

秋の日遠しあしたにも
高きに登りゆふべにも
流れをつたひ独りして
ふりさけ見れば鳥影の
天の鏡に舞ふかなた
思ひを閉す白雲の
浮べるかたを望めども
都は見えず寂寥《さびしさ》よ
来りてわれと共にかたりね

目次に戻る