晩春の別離

時は暮れ行く春よりぞ
また短きはなかるらむ
恨《うらみ》は友の別れより
さらに長きはなかるらむ

君を送りて花近き
高楼《たかどの》までもきて見れば
緑に迷ふ鶯は
霞《かすみ》空《むな》しく鳴きかへり
白き光は佐保姫の
春の車駕《くるま》を照らすかな

これより君は行く雲と
ともに都を立ちいでて
懷《おも》へば琵琶の湖《みづうみ》の
岸の光にまよふとき
東胆吹《いぶき》の山高く
西には比叡比良の峯
日は行き通ふ山々の
深きながめをふしあふぎ
いかにすぐれし想《おもひ》をか
沈める波に湛《たゝ》ふらむ

流れは空し法皇
夢《ゆめ》杳《はる》かなる鴨の水
水にうつろふ山城の
みやびの都《みやこ》行く春の
霞めるすがた見つくして
畿内に迫る伊賀伊勢の
鈴鹿の山の波遠く
海に落つるを望むとき
いかに万《よろづ》の恨《うらみ》をば
空行く鷲に窮むらむ

春去り行かば青によし
奈良の都に尋ね入り
としつき君がこひ慕ふ
御堂《みだう》のうちに遊ぶとき
古き芸術《たくみ》の花の香《か》の
伽藍《がらん》の壁《かべ》に遺りなば
いかに韻《にほひ》を身にしめて
深き思に沈むらむ

さては秋津の島が根の
南の翼《つばさ》紀の国を
回《めぐ》りて進む黒潮《くろしほ》の
鳴門に落ちて行くところ
天際《あまぎは》遠く白き日の
光を泄らす雲裂けて
目にはるかなる遠海の
波の踴るを望むとき
いかに胸うつ音《おと》高く
君が血汐のさわぐらむ

または名に負ふ歌枕
波に千とせの色映る
明石の浦のあさぼらけ
松万代《よろづよ》の音《ね》に響く
舞子の浜のゆふまぐれ
もしそれ海の雲落ちて
淡路の島の影暗く
狭霧のうちに鳴き通ふ
千鳥の声を聞くときは
いかに浦辺にさすらひて
遠き古《むかし》を忍ぶらむ

げに君がため山々は
雲を停めむ浦々は
磯に流るゝ白波《しらなみ》を
揚げむとすらむよしさらば
旅路《たびぢ》はるかに野辺行かば
野辺のひめごと森行かば
森のひめごとさぐりもて
高きに登り天地《あめつち》の
もなかに遊べ大川《おほかは》の
流れを窮《きは》め山々のv 神をも呼ばひ谷々の
鬼をも起《おこ》し歌人《うたびと》の
魂《たま》をも遠く返《か》へしつゝ
清《すゞ》しき声をうちあげて
朽《く》ちせぬ琴をかき鳴らせ

あゝ歌神《うたがみ》の吹く気息《いき》は
絶えてさびしくなりにけり
ひゞき空しき天籟は
いづくにかある

       九つの
芸術《たくみ》の神のかんづまり
かんさびませしとつくにの
阿典《あぜん》の宮殿《みや》の玉垣
今はうつろひかはりけり
草の緑はグリイスの
牧場《まきば》を今も覆ふとも
みやびつくせしいにしへの
笛のしらべはいづくぞや
かのバビロンの水青く
千歳《ちとせ》の色をうつすとも
柳に懸けしいにしへの
琴は空しく流れけり

げにや大雅《みやび》をこひ慕ふ
君にしあれば君がため
芸術《たくみ》の天《そら》に懸る日も
時を導く星影も
いづれ行くへを照らしつゝ
深き光を示すらむ

さらば名残はつきずとも
袂を別つ夕まぐれ
見よ影深き欄干《おばしま》に
煙をふくむ藤の花
北行く鴈は大空《おほそら》の
霞に沈み鳴き帰り
彩《あや》なす雲も愁《うれ》ひつゝ
君を送るに似たりけり

あゝいつかまた相逢うて
もとの契りをあたゝめむ
梅も桜も散りはてて
すでに柳はふかみどり
人はあかねど行く春を
いつまでこゝにとゞむべき
われに惜むな家づとの
一枝の筆の花の色香を

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