新潮

   一

彼《かれ》あげまきのむかしより
潮《うしほ》の音《おと》を聞き慣れて
磯辺に遊ぶあさゆふべ
海人《あま》の舟路を慕ひしが
やがて空《むな》しき其夢は
身の生業《なりはひ》となりにけり

七月夏の海《うみ》の香《か》の
海藻《あまも》に匂ふ夕まぐれ
兄もろともに舟《ふね》浮《う》けて
力をふるふ水馴棹《みなれざを》
いづれ舟出《ふなで》はいさましく
波間に響く櫂の歌

夕潮《ゆふじほ》青き海原《うなばら》に
すなどりすべく漕ぎくれば
巻《ま》きては開く波の上の
鴎の夢も冷やかに
浮び流るゝ海草《うみぐさ》の
目にも幽《かす》かに見ゆるかな

まなこをあげて落つる日の
きらめくかたを眺むるに
羽袖うちふる鶻隼《はやぶさ》は
彩《あや》なす雲を舞ひ出でゝ
翅《つばさ》の塵《ちり》を払ひつゝ
物にかゝはる風情《ふぜい》なし

飄々として鳥を吹く
風の力もなにかせむ
勢《いきほひ》竜《たつ》の行くごとく
羽音《はおと》を聞けば葛城の
そつ彦むかし引きならす
真弓《まゆみ》の弦《つる》の響あり

希望《のぞみ》すぐれし鶻隼《はやぶさ》よ
せめて舟路のしるべせよ
げにその高き荒魂《あらたま》は
敵に赴《おもむ》く白馬《しろむま》の
白き鬣《たてがみ》うちふるひ
風を破《やぶ》るにまさるかな

海面《うみづら》見ればかげ動く
深紫の雲の色
はや暮れて行く天際《あまぎは》に
行くへや遠き鶻隼の
もろ羽《は》は彩《あや》にうつろひて
黄金《こがね》の波にたゞよひぬ

朝《あした》夕《ゆふべ》を刻《きざ》みてし
天の柱の影暗く
雲の帳《とばり》もひとたびは
輝きかへる高御座《たかみくら》
西に傾く夏の日は
遠く光彩《ひかり》を沈めけり

見ようるはしの夜《よる》の空《そら》
見ようるはしの空の星
北斗の清《きよ》き影《かげ》沍《さ》えて
望みをさそふ天の花
とはの宿りも舟人《ふなびと》の
光を仰ぐためしかな

潮《うしほ》を照らす篝火《かゞりび》の
きらめくかたを窺へば
松《まつ》の火あかく燃ゆれども
魚行くかげは見えわかず
流れは急《はや》しふなべりに
触れてかつ鳴る夜《よる》の浪《なみ》

   二

またゝくひまに風吹きて
舞ひ起《た》つ雲をたとふれば
戦《いくさ》に臨むますらをの
あるは鉦《かね》うち貝を吹き
あるは太刀《たち》佩《は》き剣《つるぎ》執《と》り
弓矢《ゆみや》を持つに似たりけり

光は離れ星隠れ
みそらの花はちりうせぬ
彩《あや》美《うるは》しき巻物《まきもの》を
高く舒《の》べたる大空《おほぞら》は
みるまに暗く覆はれて
目にすさまじく変りけり

聞けばはるかに万軍《ばんぐん》の
鯨波《とき》のひゞきにうちまぜて
陣螺《ぢんら》の音色《ねいろ》ほがらかに
野《の》の空《そら》高く吹けるごと
闇《くら》き潮《うしほ》の音のうち
いと新《あたら》しき声すなり

彼《かれ》あまたゝび海にきて
風吹き起るをりをりの
波の響に慣れしかど
かゝる清《すゞ》しき音《ね》をたてて
奇《く》しき魔の吹く角《かく》かとぞ
うたがはるゝは聞かざりき

こゝろせよかしはらからよ
な恐れそと叫ぶうち
あるはけはしき青山《あをやま》を
凌《しの》ぐにまがふ波の上《うへ》
あるは千尋ちひろ》の谷深く
落つるにまがふ濤《なみ》の影《かげ》

戦《たゝか》ひ進むものゝふの
剣《つるぎ》の霜を拂ふごと
溢るゝばかり奮《ふる》ひ立ち
潮《うしほ》を撃ちて漕ぎくれば
梁《やな》はふたりの盾《たて》にして
柁《かぢ》は鋭《するど》き刃《やいば》なり

たとへば波の西風《にしかぜ》の
梢をふるひふるごとく
舟は枯れゆく秋の葉の
枝に離れて散るごとし
帆檣《ほばしら》なかば折れ砕け
篝《かゞり》は海に漂《たゞよ》ひぬ

哀《かな》しや狂《くる》ふ大波《おほなみ》の
舟うごかすと見るうちに
櫓《ろ》をうしなひしはらからは
げに消えやすき白露《しらつゆ》の
落ちてはかなくなれるごと
海の藻屑《もくづ》とかはりけり

あゝ思のみはやれども
眼《まなこ》の前のおどろきは
剣《つるぎ》となりて胸を刺《さ》し
千々《ちゞ》に力を砕《くだ》くとも
怒りて高き逆波《さかなみ》は
猛《たけ》き心を傷《いた》ましむ

命運《さだめ》よなにの戯《たはむ》れぞ
人の命は春の夜の
夢とやげにも夢ならば
いとゞ悲しき夢をしも
見るにやあらむ海にきて
まのあたりなるこの夢は

これを思へば胸満ちて
流るゝ涙せきあへず
今はた櫂をうちふりて
波と戦ふ力なく
死して仆《たふ》るゝ人のごと
身を舟板に投《な》げ伏しぬ

一葉《ひとは》にまがふ舟の中
波にまかせて流れつゝ
声を放ちて泣き入れば
げに底ひなきわだつみの
上に行衛も定めなき
鴎《かもめ》の身こそ悲しけれ

時には遠き常闇《とこやみ》の
光なき世に流れ落ち
朽ちて行くかと疑はれ
時には頼む人もなき
冷《つめ》たき冥府《よみ》の水底《みなそこ》に
沈むかとこそ思はるれ

あゝあやまちぬよしや身は
おろかなりともかくてわれ
もろく果つべき命かは
照る日や月や上にあり
大竜神《おほだつがみ》も心あらば
賤《いや》しきわれをみそなはせ

かくと心に定めては
波ものかはと励《はげ》みたち
闇《やみ》のかなたを窺ふに
空《そら》はさびしき雨となり
潮《うしほ》にうつる燐《りん》の火の
乱れて燃ゆる影青し

彼《かれ》よるべなき海の上《へ》に
活《い》ける力の胸の火を
わづかに頼む心より
消えてはもゆる闇の夜《よ》の
その静かなる光こそ
漂《たゞよ》ふ身にはうれしけれ

危ふきばかりともすれば
波にゆらるゝこの舟の
行くへを照らせ燐の火よ
海よりいでゝ海を焚《や》く
青きほのほの影の外
道しるべなき今の身ぞ

砕かば砕けいでさらば
波うつ櫂はこゝにあり
たとへ舟路は暗くとも
世に勝つ道は前にあり
あゝ新潮《にひじほ》にうち乗りて
命運《さだめ》を追うて活《い》きて帰らむ

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