島崎藤村

利根川だより*2

野辺のゆきゝ あしびきの山のあらゝぎ たゞ一もと摘みてもて来て 我妹子がたもとに入れし 足引きのやまのあらゝぎ いまもなほさやかに匂ふ あなうれしいまだ我をば 忘れたまはじ 野の家 袖子が家のやねの草 そで子がやねの草の露 ゆふべは宿る星ひとつ 哀は…

夏の夢

また落ちかゝる白雨の 若葉青葉を過ぎてのち 緑の野辺の蝶に来て 名もなき草の花ざかり めぐりめぐりて藪かげを ぬつと出づれば夏の日や 白き光に照らされて すがたをつゝむ頬冠り 離れ離れの雲の行く 天の心は知らねども 蛙のうたふ声きけば 今はよろづの恋…

銀鎖

こゝろをつなぐ銀《しろがね》の 鎖《くさり》も今はたえにけり こひもまこともあすよりは つめたき砂にそゝがまし 顔もうるほひ手もふるひ 逢ふてわかれををしむより 人目の関はへだつとも あかぬむかしぞしたはしき 形《かたち》となりて添はずとも せめて…

浦島

浦島の子とぞいふなる 遊ぶべく海辺に出でゝ 釣《つり》すべく岩に上りて 長き日を糸垂れ暮す 流れ藻《も》の青き葉蔭に 隠れ寄る魚かとばかり 手を延べて水を出《い》でたる うらわかき処女《をとめ》のひとり 名のれ名のれ奇《く》しき処女《をとめ》よ わ…

蜑のなげき

風よ静かに彼《か》の岸へ こひしき人を吹き送れ 海を越え行く旅人の 群《むれ》にぞ君はまじりたる 八重《やへ》の汐路《しおぢ》をかき分けて 行くは僅《わずか》に舟一葉《ふねひとは》 底白波《しらなみ》の上なれば 君安かれと祈るかな 海とはいへどひ…

胸より胸に

其 一 めぐり逢ふ 君やいくたび めぐり逢《あ》ふ君やいくたび あぢきなき夜《よ》を日にかへす 吾《わが》命暗《やみ》の谷間も 君あれば恋のあけぼの 樹《き》の枝に琴は懸《か》けねど 朝風の来て弾《ひ》くごとく 面影に君はうつりて 吾胸を静かに渡る …

罪《つみ》なれば物のあはれを こゝろなき身にも知るなり 罪なれば酒をふくみて 夢に酔ひ夢に泣くなり 罪なれば親をも捨てて 世の鞭《むち》を忍び負ふなり 罪なれば宿を逐《お》はれて 花園に別れ行くなり 罪なれば刃《やいば》に伏《ふ》して 紅《あか》き…

緑蔭

枝うちかはす梅と梅 梅の葉かげにそのむかし 鶏《とり》は鶏《とり》とし並び食《く》ひ われは君とし遊びてき 空風吹けば雲離れ 別れいざよふ西東《にしひがし》 青葉は枝に契るとも 緑は永くとゞまらじ 水去り帰る手をのべて 誰《た》れか流れをとゞむべき…

黄昏

つと立ちよれば垣根《かきね》には 露草《つゆくさ》の花さきにけり さまよひくれば夕雲《ゆふぐも》や これぞこひしき門辺《かどべ》なる 瓦の屋根に烏《からす》啼き 烏《からす》帰りて日は暮れぬ おとづれもせず去《い》にもせで 螢と共にこゝをあちこち…

悪夢

少年の昔よりかりそめに相知れるなにがし、獄に繋がるゝことこゝに三とせあまりなりしが、はからざりき飛報かれの凶音を伝へぬ。今春獄吏に導かれて、かれを巣鴨の病床に訪ひしは、旧知相見るの最後にてありき。かれ学あり、才あり、西の国の言葉にも通じ、…

壮年の歌

わかものゝかたりていへる 人の身にやどれる冬の 暮れてゆく命を見れば 雲白く髪に流れて 日にあたる花も香もなし 枯草をすがたに刻み 食ひ飲みて衰ふばかり おのづから眠にかへる 労こそは奇しきものなれ ある翁こたへていへる われとても君にさながら 身に…

労働雑詠

其一 朝 朝はふたゝびこゝにあり 朝はわれらと共にあり 埋れよ眠行けよ夢 隱れよさらば小夜嵐《さよあらし》 諸羽《もろは》うちふる鶏は 咽喉《のんど》の笛を吹き鳴らし けふの命の戦闘《たゝかひ》の よそほひせよと叫ぶかな 野に出でよ野に出でよ 稲の穂…

小諸なる古城のほとり

小諸なる古城のほとり 雲白く遊子《いうし》悲しむ 緑なす【はこべ】は萌えず 若草も藉《し》くによしなし しろがねの衾《ふすま》の岡辺 日に溶《と》けて淡雪流る あたゝかき光はあれど 野に満つる香《かをり》も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わづかに…

序文

わが口唇は千曲川の蘆のごとし。その葉は風に鳴りそよぎてあやしきしらべに通ふめるごとく、わが口唇もまた震ひ動きて朝暮の思を伝ふるまでなり。かれをしらべといはんには、あまりにかすかなり、これを歌といはんには、あまりにつたなくをさなきものなり。 …

落梅集*1

目次 小諸なる古城のほとり 労働雑詠 壮年の歌 悪夢 黄昏 緑蔭 罪 胸より胸に 蜑のなげき 浦島 銀鎖 夏の夢 利根川だより 椰子の実 海辺の曲 蟹の歌 舟路 千曲川旅情の歌 常盤樹 寂寥 響りんりん音りんりん 藪入 鼠をあはれむ 問答の歌 鳥なき里

木曾谿日記*5

十一月一日 きみがはかばに きゞくあり きみがはかばに さかきあり くさはにつゆは しげくして おもからずやは そのしるし いつかねむりを さめいでゝ いつかへりこむ わがはゝよ あからひくこも ますらをも みなちりひぢと なるものを あゝさめたまふ こと…

亡友反古帖*4

春駒(断篇) 第一 門出 北風に窓閉されて朝夕の 伴《とも》となるもの書《ふみ》と炉火《いろり》、 軒下の垂氷《つらゝ》と共に心《むね》凍り、 眺めて学ぶ雪達磨、 けふまでこそは梅桜、 霜の悩みに黙しけれ。 霜柱きのふ解けたる其儘《そのまま》に 朝…

ながれみづ

きりぎりす

去年《こぞ》蔦の葉の かげにきて うたひいでしに くらぶれば ことしも同じ しらべもて かはるふしなき きりぎりす 耳なきわれを とがめそよ うれしきものと おもひしを 自然《しぜん》のうたの かくまでに 旧《ふる》きしらべと なりけるか 同じしらべに た…

白磁花瓶賦

みしやみぎはの白あやめ はなよりしろき花瓶《はながめ》を いかなるひとのたくみより うまれいでしとしるやきみ 瓶《かめ》のすがたのやさしきは 根ざしも清き泉より にほひいでたるしろたへの こゝろのはなと君やみん さばかり清きたくみぞと いひたまふこ…

銀河

天《あま》の河原《かはら》を ながむれば 星の力《ちから》は おとろへて 遠きむかしの ゆめのあと こゝにちとせを すぎにけり そらの泉《いづみ》を よのひとの 汲むにまかせて わきいでし 天の河原は かれはてて 水はいづこに うせつらむ ひゞきをあげよ …

鷲の歌

みるめの草は青くして海の潮《うしほ》の香《か》にゝほひ 流れ藻の葉はむすぼれて蜑の小舟にこがるゝも あしたゆふべのさだめなき大竜神《おほたつがみ》の見る夢の 闇《くら》きあらしに驚けば海原《うなばら》とくもかはりつゝ とくたちかへれ夏波に友よ…

春やいづこに

かすみのかげにもえいでし いとの柳にくらぶれば いまは小暗き木下闇《こしたやみ》 あゝ一時《ひととき》の 春やいづこに 色をほこりしあさみどり わかきむかしもありけるを 今はしげれる夏の草 あゝ一時の 春やいづこに 梅も桜もかはりはて 枝は緑の酒のこ…

おちば

この小冊子は過ぐる五とせの間、目に見、耳に聴き、心に浮びたることゞもを記しつけたるふみのうちより、とり集めたるものなれば、吾が幼稚なる生涯の旅日記ともいふべきなり。都を離れて遠く山水の間にあそび、さみしき燈火の影にものしたる紀行あり、また…

一葉舟*3

目次 序 おちば 春やいづこに 鷲の歌 銀河 白磁花瓶賦 きりぎりす ながれみづ 亡友反古帖 木曾谿日記

深林の逍遙

力を刻《きざ》む木匠《こだくみ》の うちふる斧のあとを絶え 春の草花《くさばな》彫刻《ほりもの》の 鑿《のみ》の韻《にほひ》もとゞめじな いろさまざまの春の葉に 青一筆《あをひとふで》の痕《あと》もなく 千枝《ちえ》にわかるゝ赤樟《あかくす》も …

花によりそふ鶏《にはとり》の 夫《つま》よ妻鳥《めどり》よ燕子花《かきつばた》 いづれあやめとわきがたく さも似つかしき風情《ふぜい》あり 姿やさしき牝鶏《めんどり》の かたちを恥づるこゝろして 花に隠るゝありさまに 品かはりたる夫鳥《つまどり》…

松島瑞巌寺に遊び葡萄栗鼠の木彫を観て

舟路《ふなぢ》も遠し瑞巌寺 冬逍遙《せうえう》のこゝろなく 古き扉に身をよせて 飛騨《ひだ》の名匠《たくみ》の浮彫《うきぼり》の 葡萄のかげにきて見れば 菩提《ぼだい》の寺の冬の日に 刀《かたな》悲《かな》しみ鑿《のみ》愁《うれ》ふ ほられて薄き…

望郷

寺をのがれいでたる僧のうたひし そのうた いざさらば これをこの世のわかれぞと のがれいでゝは住みなれし 御寺《みてら》の蔵裏《くり》の白壁《しらかべ》の 眼にもふたゝび見ゆるかな いざゝらば 住めば仏のやどりさへ 火炎《ほのほ》の宅《いへ》となる…