深林の逍遙

力を刻《きざ》む木匠《こだくみ》の
うちふる斧のあとを絶え
春の草花《くさばな》彫刻《ほりもの》の
鑿《のみ》の韻《にほひ》もとゞめじな
いろさまざまの春の葉に
青一筆《あをひとふで》の痕《あと》もなく
千枝《ちえ》にわかるゝ赤樟《あかくす》も
おのづからなるすがたのみ
檜《ひのき》は荒し杉直し
五葉は黒し椎の木の
枝をまじゆる白樫や
樗《あふち》は茎をよこたへて
枝と枝とにもゆる火の
なかにやさしき若楓

   山精

  ひとにしられぬ
  たのしみの
  ふかきはやしを
  たれかしる

  ひとにしられぬ
  はるのひの
  かすみのおくを
  たれかしる

   木精

  はなのむらさき
  はのみどり
  うらわかぐさの
  のべのいと

  たくみをつくす
  大機《おほはた》の
  梭《をさ》のはやしに
  きたれかし

   山精

  かのもえいづる
  くさをふみ
  かのわきいづる
  みづをのみ

  かのあたらしき
  はなにゑひ
  はるのおもひの
  なからずや

   木精

  ふるきころもを
  ぬぎすてて
  はるのかすみを
  まとへかし

  なくうぐひすの
  ねにいでて
  ふかきはやしに
  うたへかし

あゆめば蘭の花を踏み
ゆけば楊梅《やまもゝ》袖に散り
袂《たもと》にまとふ山葛《やまくづ》の
葛のうら葉をかへしては
女蘿《ひかげ》の蔭のやまいちご
色よき実こそ落ちにけれ
岡やまつゞき隈々《くまぐま》も
いとなだらかに行き延びて
ふかきはやしの谷あひに
乱れてにほふふぢばかま
谷に花さき谷にちり
人にしられず朽つるめり
せまりて暗き峡《はざま》より
やゝひらけたる深山木の
春は小枝《こえだ》のたゝずまひ
しげりて広き熊笹
葉末をふかくかきわけて
谷のかなたにきて見れば
いづくに行くか滝川よ
声もさびしや白糸の
青き巌《いはほ》に流れ落ち
若き猿《ましら》のためにだに
音《おと》をとゞむる時ぞなき

   山精

  ゆふぐれかよふ
  たびゞとの
  むねのおもひを
  たれかしる

  友にもあらぬ
  やまかはの
  はるのこゝろ
  たれかしる

   木精

  夜《よ》をなきあかす
  かなしみの
  まくらにつたふ
  なみだこそ

  ふかきはやしの
  たにかげの
  そこにながるゝ
  しづくなれ

   山精

  鹿はたふるゝ
  たびごとに
  妻こふこひに
  かへるなり

  のやまは枯るゝ
  たびごとに
  ちとせのはるに
  かへるなり

   木精

  ふるきおちばを
  やはらかき
  青葉のかげに
  葬れよ

  ふゆのゆめぢを
  さめいでゝ
  はるのはやしに
  きたれかし

今しもわたる深山かぜ
春はしづかに吹きかよふ
林の簫《せう》の音《ね》をきけば
風のしらべにさそはれて
みれどもあかぬ白妙《しろたへ》の
雲の羽袖《はそで》の深山木の
千枝《ちえだ》にかゝりたちはなれ
わかれ舞ひゆくすがたかな
樹々《きぎ》をわたりて行く雲の
しばしと見ればあともなき
高き行衛《ゆくへ》にいざなはれ
千々にめぐれる巌影《いはかげ》の
花にも迷ひ石に倚《よ》り
流るゝ水の音をきけば
山は危ふく石わかれ
削《けづ》りてなせる青巌《あをいは》に
砕けて落つる飛潭《たきみづ》の
湧きくる波の瀬を早み
花やかにさす春の日の
光烱《ひかり》照りそふ水けぶり
独り苔《こけ》むす岩を攀《よ》ぢ
ふるふあゆみをふみしめて
浮べる雲をうかゞへば
下にとゞろく飛潭《たきみづ》の
澄むいとまなき岩波は
落ちていづくに下るらん

   山精

  なにをいざよふ
  むらさきの
  ふかきはやしの
  はるがすみ

  なにかこひしき
  いはかげを
  ながれていづる
  いづみがは

   木精

  かくれてうたふ
  野の山の
  こゑなきこゑを
  きくやきみ

  つゝむにあまる
  はなかげの
  水のしらべを
  しるやきみ

   山精

  あゝながれつゝ
  こがれつゝ
  うつりゆきつゝ
  うごきつゝ

  あゝめぐりつゝ
  かへりつゝ
  うちわらひつゝ
  むせびつゝ

   木精

  いまひのひかり
  はるがすみ
  いまはなぐもり
  はるのあめ

  あゝあゝはなの
  つゆに酔ひ
  ふかきはやしに
  うたへかし

ゆびをりくればいつたびも
かはれる雲をながむるに
白きは黄なりなにをかも
もつ筆にせむ色彩《いろあや》の
いつしか淡く茶を帯びて
雲くれなゐとかはりけり
あゝゆふまぐれわれひとり
たどる林もひらけきて
いと静かなる湖の
岸辺にさける花躑躅《はなつつじ》
うき雲ゆけばかげ見えて
水に沈める春の日や
それ紅《くれなゐ》の色染めて
雲紫となりぬれば
かげさへあかき水鳥の
春のみづうみ岸の草
深き林や花つゝじ
迷ふひとりのわがみだに
深紫《ふかむらさき》の紅《くれなゐ》の
彩《あや》にうつろふ夕まぐれ

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対応できない字は【】で示した。
底本:「島崎藤村全集」筑摩書房(昭和56年)
初出:「若菜集春陽堂(明治30年)