横山大観「生々流転」

今日は文化の日ということで無料開放をしていた国立近代美術館に出かけてきました。ここ近代美術館には、20世紀初頭から現代に至る絵画・彫刻・水彩画・素画・写真などさまざまな所蔵作品があり、日本の近代美術の流れが概観できるように様々な展示が行われています。
いつものように4階建ての建物に入ると、ちょうど館内ガイドが始まる時間だったので、その人達について行くことにしました。
黒田清輝の「落葉(らくよう)」という1891年の作品の前で、ガイドの人が会場の人に「どのような場所を書いた絵だと思いますか」と聞きました。数人の人が武蔵野の風景だとか、フランスの風景などと答えましたが、私は絵に描かれている木の葉のまばら具合がこの前見てきた軽井沢の白樺に似ていたので、高原の風景ではないかと思いました。しかし一方で樹皮が白樺の様に白くなく、幹もしっかりと太かったのではっきりとはしませんでした。結局のところ、この絵はパリの郊外の風景だということです。
そしてその様にしてしばらく解説を聞いていたのですが、今日は無料開放と言うことで大変人が多くて、私はそのまま聞いていることに息苦さを感じたので、ついて行くのをやめにして当初の目的の作品へと向かうことにしました。
現在ここには、横山大観の「生々流転」という水墨画が展示されています。この作品は、40mにも及ぶ大変長い画面の作品で、深山幽谷から水の滴が生じて集まり川となり、次第に広さを増して雄大な大海に注ぎ、最後には竜となって昇天していくという水の一生を描いた絵です。この作品は2回に分けて公開されていて、11月の前半まではその前半部が公開されています。
「生々流転」というのは、「万物が永遠に生死を繰り返し、絶えず移り変わってゆくこと」を意味します。大観はその事を表現するために、天地を循環し、色・形を持たず、絶えず変わっていく水という物質を選びました。昔から東洋には人の行動規範を天地自然の世界に求めていくという思想があり、人間の作り出した学問も文明も、大自然の営みに比べれば取るに足りないものと考える思想がありました。
例えば中国の「老子」では

老子第8章
道に適ったまことの善は水のようなものだ。いったい水は、人や万物に多大な利益をもたらすが、低いほうに流れて決して争うことをせず、人々の嫌がる低湿の地を居所としている。それゆえ、このような水のあり方は「道」に近いといえよう。
水のあり方に実を体した人は、居所としては大地の上を善いとし、心のあり方としては淵のように深く静かであるのを善いとし、人と交わるには情け深いことを善しとし、もの言うには誠実であることを善いとし、施政の場では治まることを善いとし、事にあたっては有能であることを善いとし、行動を起こすには時宜に適うことを善いとする。
そもそも水のあり方を身に体した人は決して争うことをしない、だから災いをこうむることもないのだ。(「老子」を読む(楠山春樹)から引用)

のように、水のあり方に人間が従うべき理想のあり方があるとされています。ここで「道」というのは天地造化のエネルギー、この世界の有るものを支え、自然界に秩序をもたらし、天地という物以前の無名の物とされています。つまり、水というのは「道」のあり方に沿っているもので、この水のあり方が人のもっとも善いあり方だと述べているのです。
さて、私はこの絵を右から左に見ていて少し気になる所があります。今日はそれをここに記録しておこうと思ったのでこの日記を書いています。それというのは水の始まりの所です。さて「生々流転」という世界の理を描きだそうとするとき、先ずはじめの何かが生じる所、ここでは対象となる水が始まるところはどのように描き表そうとするのでしょうか。逆から考えいくと、雄大な川を遡っていき、次第に巌のせり出す断崖絶壁の渓流を越え、山の深く清水の湧き出す所、その湧き出す水の浸み込む所、霧がかった山の葉からうっすらと水滴が滴り落ちる所、そしてその霧という雲という大気の湿り気を生じるところなどが創造されるでしょう。逆の最たるところ、海の所では竜が空に昇天していくのですから、蛇の尾を噛む所、循環している所に行き着くはずです。

山桜が音もなく散り始める、ひっそりと静まりかえった山中。雲煙は樹木を濡らし、葉を伝って一粒の水滴となり大地にしみこみます。湧き水は幾筋かのせせなぎとなり、それらが集まってつくる渓流は〜

これは美術館のパンフレットの紹介文なのですが、確かに絵の始まりの淡い色で描かれる所は、この紹介文で示されているような霧が深く形の定かでない深山から始まるのですが、竜の昇天していく所、水という形なきものを生み出す元のもの、大気であったり、無であったりという「空白の領域」がこの説明には含まれていないように思います。
実際に絵を見ても、すぐに淡い色の部分が始まって空白の部分は示されてはいないのですが、端の方をを見てみると、まるまって巻いてある部分があり、この部分に何かが描かれているということは絶対にないのですが、そこにはすべての始まりの空白が託されているのではないかと、その「空」の部分を見せた上でないとこの「生々流転」という言葉の意味は尽くされないのではないかと感じました。水墨画では、キャンバスのすべてを塗る西洋画とは違って空白の部分にも重要な意味があるはずです。まあ、といってもかってに思ってるだけなので、確認のしようもありませんし、そういう事を考えたということだけです。最後に空について「老子」からもう一つ引用して終わります。最初は原文を載せようと思いましたが、漢文なのでレや一二をどうしようか迷って結局通解を引用することにしました。

老子第11章
三十本の輻が一つのこしきに集まって車輪が形作られるが、それが車輪として役に立つのは、こしきの中央に軸を通すための穴が空いているからである。粘土をこねて食器を作るが、それが食器として役立つのは、内側が空っぽになっているからである。戸や窓をあけて家を作るが、それが家として役立つのは、内に空間があるからである。
つまり車輪・食器・家といった有形のものが役に立つのも、空間という無形のはたらきがあってのことなのだ。(「老子」を読む(楠山春樹)から引用)