序文

◎ 私の情緒は、激情《パツシヨン》といふ範疇に属しない。むしろそれはしづかな霊魂ののすたるぢやであり、かの春の夜に聴く横笛のひびきである。 ある人は私の詩を官能的であるといふ。或はさういふものがあるかも知れない。けれども正しい見方はそれに反対…

詩集の始に

この詩集には、詩六十篇を納めてある。内十六篇を除いて、他はすべて既刊詩集にないところの、単行本として始めての新版である。 この詩集は「前篇」と「後篇」の二部に別かれる。前篇は第二詩集「青猫」の選にもれた詩をあつめたもの、後篇は第一詩集「月に…

序文*2

函館なる郁雨宮崎大四郎君 同国の友文学士花明金田一京助君 この集を両君に捧ぐ。予はすでに予のすべてを両君の前に示しつくしたるものの如し。従つて両君はここに歌はれたる歌の一一につきて最も多く知るの人なるを信ずればなり。 また一本をとりて亡児真一…

序文*1

世の中には途方も無い仁《じん》もあるものぢや、歌集の序を書けとある、人もあらうに此の俺に新派の歌集の序を書けとぢや。ああでも無い、かうでも無い、とひねつた末が此んなことに立至るのぢやらう。此の途方も無い処が即ち新の新たる極意かも知れん。 定…

啄木

上田 敏 婆羅門《ばらもん》の作れる小田《をだ》を食《は》む鴉、 なく音《ね》の、耳に慣れたるか、 おほをそ鳥《どり》の名にし負ふ いつはり声《ごゑ》のだみ声《ごゑ》を 又なき歌とほめそやす 木兎《つく》、梟《ふくろう》や、椋鳥《むくどり》の と…

詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的はむしろそれらの者を通じて、人心の内部に震動《しんどう》する所の感情その…

萩原君。 何と言っても私は君を愛する。そして室生君を。それは何と言っても素直な優しい愛だ。いつまでもそれは永続するもので、いつでも同じ温かさを保ってゆかれる愛だ。この三人の生命を通じ、よしそこにそれぞれ天稟《てんぴん》の相違はあっても、何と…

人生の大きな峠を、また一つ自分はうしろにした。十年一昔だといふ。すると自分の生れたことはもうむかしの、むかしの、むかしの、そのまた昔の事である。まだ、すべてが昨日今日のやうにばかりおもはれてゐるのに、いつのまにそんなにすぎさつてしまつたの…

自序

自分は人間である。故に此等の詩はいふまでもなく人間の詩である。 自分は人間の力を信ずる。力! 此の信念の表現されたものが此等の詩である。 自分は此等の詩の作者である。作者として此等の詩のことをおもへば其処には憂鬱にして意地悪き暴風雨ののちに起…

自序

若菜集、一葉舟、夏草、落梅集の四巻 をまとめて合本の詩集をつくりし時に 遂《つい》に、新しき詩歌《しいか》の時は来りぬ。 そはうつくしき曙《あけぼの》のごとくなりき。あるものは古《いにしへ》の預言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ば…

序文

わが口唇は千曲川の蘆のごとし。その葉は風に鳴りそよぎてあやしきしらべに通ふめるごとく、わが口唇もまた震ひ動きて朝暮の思を伝ふるまでなり。かれをしらべといはんには、あまりにかすかなり、これを歌といはんには、あまりにつたなくをさなきものなり。 …

この小冊子は過ぐる五とせの間、目に見、耳に聴き、心に浮びたることゞもを記しつけたるふみのうちより、とり集めたるものなれば、吾が幼稚なる生涯の旅日記ともいふべきなり。都を離れて遠く山水の間にあそび、さみしき燈火の影にものしたる紀行あり、また…

序文

こゝろなきうたのしらべは ひとふさのぶだうのごとし なさけあるてにもつまれて あたゝかきさけとなるらむ ぶだうだなふかくかゝれる むらさきのそれにあらねど こゝろあるひとのなさけに かげにおくふさのみつよつ そはうたのわかきゆゑなり あぢはひもいろ…

憶え書

鞠とぶりきの独楽 及びそれよりうえにとじてあるのは、皆 今夜――(六月一八日の夜)の作なり。これ等は童謡ではない。むねふるえる 日の全てをもてうたえる大人の詩である。まことの童謡のせかいにすむものは こどもか 神さまかである。 目次に戻る

憶えがき

これ等の詩篇は殆んどすべてわが熱く愛するものなり。これ等はわづか二日にしてなれるものなり。みずからにもふしぎとするまで愛らしき詩なり。われは、ふたたび曙にたつおもいあり。命なかりしものも命あるべくおもわれきたれるなり。 目次に戻る

私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。 目次に戻る