詩の表現の目的は単に情調のための情調を表現することではない。幻覚のための幻覚を描くことでもない。同時にまたある種の思想を宣伝演繹することのためでもない。詩の本来の目的はむしろそれらの者を通じて、人心の内部に震動《しんどう》する所の感情そのものの本質を凝視し、かつ感情をさかんに流露させることである。

 詩とは感情の神経を掴《つか》んだものである。生きて働く心理学である。

 すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴う。これを詩のにほいという。《人によつては気韻とか気稟《きひん》とかいう》にほいは詩の主眼とする陶酔的気分の要素である。従ってこのにほいの稀薄な詩は韻文としての価値のすくないものであって、言わば香味を欠いた酒のようなものである。こういう酒を私は好まない。
 詩の表現は素朴なれ、詩のにほいは芳純でありたい。

 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表れた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらいたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言い表しがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによって表現する。しかしリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとって語り合うことができる。

 『どういうわけでうれしい?』という質問に対して人は容易にその理由を説明することができる。けれども『どういう工合にうれしい』という問に対しては何人《ぴと》もたやすくその心理を説明することは出来ない。
 思うに人間の感情というものは、極めて単純であって、同時に極めて複雑したものである。極めて普遍性のものであって、同時に極めて個性的な特異なものである。
 どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには音楽と詩があるばかりである。

 私はときどき不幸な狂水病者のことを考える。
 あの病気にかかった人間は非常に水を恐れるということだ。コップに盛った一杯の水が絶息するほど恐ろしいというようなことは、どんなにしても我々には想像のおよばないことである。
 『どういうわけで水が恐ろしい?』『どういう工合に水が恐ろしい?』これらの心理は、我々にとっては只々不可思議千万のものというの外はない。けれどもあの患者にとってはそれが何よりも真実な事実なのである。そしてこの場合にもしその患者自身が……何らかの必要に迫られて……この苦しい実感を傍人《ぼうじん》に向って説明しようと試みるならば《それはずいぶん有りそうに思われることだ。もし傍人がこの病気について特種の知識をもたなかった場合には彼に対してどんな惨酷な悪戯《いたずら》が行われないとも限らない。こんな場合を考えると私は戦慄せずにはいられない。》患者自身はどんな手段をとるべきであろう。恐らくはどのような言葉の説明をもってしても、この奇異な感情を表現することは出来ないであろう。
 けれども、もし彼に詩人としての才能があったら、もちろん彼は詩を作るにちがいない。詩は人間の言葉で説明することの出来ないものまでも説明する。詩は言葉以上の言葉である。

 狂水病者の例は極めて特異の例である。けれどもまた同時に極めてありふれた例でもある。
 人間は一人一人にちがつた肉体と、ちがった神経とをもっている。我のかなしみは彼のかなしみではない。彼のよろこびは我のよろこびではない。
 人は一人一人ではいつも永久に永久に恐ろしい孤独である
 原始以来、神は幾億万人という人間を造った。けれども全く同じ顔の人間を、決して二人とは造りはしなかった。人はだれでも単位で生まれて、永久に単位で死ななければならない。
 とはいえ、我々は決してぽつねんと切りはなされた宇宙の単位ではない。
 我々の顔は、我々の皮膚は、一人一人にみんな異っている。けれども、実際は一人一人にみんな同一のところをもっているのである。この共通を人間同志の間に発見するとき、人類間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。この共通を人類と植物との間に発見するとき、自然間の『道徳』と『愛』とが生まれるのである。そして我々はもはや永久に孤独ではない。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有していない。またそれを完全に理解している人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもったものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。

 詩は一瞬間における霊智の産物である。ふだんにもっている所のある種の感情が、電流体のごときものに触れて始めてリズムを発見する。この電流体は詩人にとっては奇蹟である。詩は予期して作られるべきものではない。

 以前、私は詩というものを神秘のように考えていた。ある霊妙な宇宙の聖霊と人間の英知との交霊作用のようにも考えていた。あるいはまた不可思議な自然の謎を解くための鍵のようにも思つていた。しかし今から思うと、それは笑うべき迷信であった。
 詩とは、決してそんな奇怪な鬼のようなものではなく、実はかえって我々とは親しみ易い兄妹や愛人のようなものである。
 私どもは時々、不具な子供のようないじらしい心で、部屋の暗い片隅にすすり泣きをする。そういう時、ぴったりと肩により添いながら、ふるえる自分の心臓の上に、やさしい手をおいてくれる乙女がある。その看護婦の乙女が詩である。
 私は詩を思うと、烈しい人間のなやみとそのよろこびとをかんじる。  詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と孤独者との寂しいなぐさめである。
 詩を思うとき、私は人情のいじらしさに自然と涙ぐましくなる。

 過去は私にとって苦しい思い出である。過去は焦躁と無為と悩める心肉との不吉な悪夢であった。月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のような不吉の謎である。犬は遠吠えをする。
 私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまいたい。影が、永久に私のあとを追って来ないように。

                            萩原朔太郎  

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